「どうぞ。バラバラのままだとしわになるし、散逸しては困りますので、まるごと持っていって、来週の講義の時に返してくだされば結構です」
ノートをルーズリーフに戻し、母に手渡した。
「ありがとうございます」
同級生に丁寧な言葉遣いで話す男性は新鮮だった、と母は言った。
「きっかり二回分のノートを外して渡してくれたってことは、母さんが二週続けて休んでいたことを観察していたのね。母さんはマドンナだったんでしょ。遠くから憧れていたんじゃない?」
午後の斜光に照らされた母の嬉しそうな表情を、私は見逃さなかった。
「ノートのとり方で知性が分かるものね。きまじめそうな細い字で、でも、ぎっしりじゃなくて見やすいの。脱線したり、無駄な繰り返しがある生講義より、ずっとすっきり理解できた。
ルーズリーフの最後のページには短歌の習作が記してあった。上の句だけ書いてあったり、消したり、加えたり。文学青年の息づかいが聞こえるようで。『見ちゃいけないかな』と思いつつ、じっくり読ませてもらったわ」
「母さん、惚れちゃったの?」
「まあ、そんなところね。初めて会話を交わした日にね。
ノート返す時、何を話そうか、いろいろ妄想してたの。実のところ」
母は笑いながら打ち明けた。拝殿の方から鈴を鳴らす音や柏手を打つ音が聞こえてくる。
翌週の授業を待たずに、母はキャンパスの黄色く色づいた銀杏並木で、父の姿を見つけて声をかけた。ルーズリーフはトートバッグに入れて毎日持ち歩いていた。
「先日はありがとうございました。ノートお返しします。
『葦刈』では、愛し合っていたのに、男はどうして別れようと言い出したのでしょう」
「自分にはもったいない女だって思っていたのでしょう。不釣り合いだって。妻にはもっと幸せになる資格があるって」
「悲しい話ですね」
「日本人は哀切なストーリーが好きだから」
「哀切ですか」
「成就する恋より、実らぬ恋の方が美しいでしょう。
葦刈と逆の話が『伊勢物語』にあります。女が男の元を出て行った後、男は出世を遂げ、妻の再婚相手は元夫より低い身分で、出張した元夫を屋敷でもてなすことになったのです。男は酒の肴に出された橘の実を手にとって歌を詠みました。高校の古文の教科書にも載っていたから、聞いたことがあるかもしれません。