最初、妹から連絡があり、母の家に電話しても誰も出ないと言った。妹は子供たちの夏休みを母の家で過ごさせようと、次の日に出かける予定だった。向こうに到着する時間を連絡するため電話を掛けたのだが、誰も出ないのだという。私も掛けてみたが、呼び出し音が延々と続くだけだった。私は妹に、これから車で行ってみる、と連絡した。千葉に着いたのは夜の十二時ころだった。家の中には灯りが点いている。玄関の鍵は開いていた。私は母の名を呼びながら家に上がった。母はトイレの前に倒れていた。
救急車の中で母の意識はなかった。
目を閉じた母の頬から力が抜けていた。表情のない顔は、既にそこにはいないことを直感させた。
老人の教えてくれた通りの場所に墓はあった。小さな墓だった。両隣の大きな墓石に鋏まれ、申し訳なさそうな窮屈そうな感じであった。
そこにはなぜか造花が供えられていた。
もしかすると、母かもしれない。枯れない花ならば、自分が来られなくなっても長く残る。
母の葬式が終わり、誰も住む人間がいなくなってしまった千葉の家は処分することになった。
伯母の話では、祖父が亡くなったとき、この家の名義は母にして、伯母たちの遺産相続分は、母が分割で払うことになっていたらしい。それはまだ払い終わっていないということだった。
その話の席で、伯母は私に何か訊きたそうだった。多分、父の墓のことだろうと思ったが、私は何も言わず黙っていた。
初七日が済んで少し経ってから、母の私物を整理した。
祖父の代から使っている古い桐の箪笥の引き出しに、私と妹宛ての白い封筒があった。封筒は色あせて、表面の繊維が少し毛羽立っていた。
父の墓について、母は書き残していた。
母も、いなくなった当初は、父を憎んでいた。そして、子供は自分のものだと考えていた。しかし、私たちが成長するにつれ、自分の子供であると同時にやはり、父の子供でもあると考えるようになった。自分はもちろん子供がかわいい。そして、そのかわいい子供達は父の子供でもあるのだ。
そう考えられるようになった頃、上野の社会福祉事務所から電話が掛かってきた。父が死んだという知らせだった。
住むところもなくホームレスになっていた父は、体を悪くして病院で死んだそうだ。息を引き取ったのは十二月十日。父の両親は既に他界していて、兄弟や親戚も引取りを拒んだらしい。
社会福祉事務所は困って、やっと母を捜し出した。離婚してから父の実家とは疎遠になっていたが、母はその話を聞いて、父の兄弟に連絡した。
年老いた父の長兄が、青山に残してある墓になら入れても良いと言ったそうだ。今井の家は戦時中に青山のあたりから仙台に疎開し、そのまま仙台に居を構えた。青山に残した墓には、幼い頃に亡くなった父の兄弟二人だけが眠っていた。ただ、葬式や手続きは断ってきたそうだ。