母は寺の手配をし、父を弔った。祥月命日に花を供えに行くようになったのは、母が千葉で一人暮らしを始めたころかららしい。
憎んでいた父になぜそこまでしてやったのか、どうして毎月参るようになったのか、は手紙の中に一言もなかった。ただ、母が十年前突然引っ越したのは、祖父への思いとともに、別の意味で父への何らかの気持ちもあったのかもしれない。
私は、自分がその立場だったらどうしただろうと考えてみたが、答えは出なかった。母と同じことをしたかもしれないし、まったく、拒否したかもしれない。
手紙の最後に、もしその気になったら、一度父の墓を参ってやってくれとあった。
私がそのとき理解できたのは、墓は死んだ人間のためのものではなく、生きて残っている人間のためにあるのだろうということだった。
手紙のあった引き出しに、古い写真が数枚、一緒に入っていた。それは、私の小学校入学式の日に、その頃住んでいたアパートのベランダで撮ったもので、黄色く色あせた白黒の一枚には、新しいランドセルを背負った私と幼稚園の制服を着た妹が、同じポーズで写っていた。
当時流行っていた漫画の、イヤミというキャラクターを真似たもので、「シェー」と言いながら手と足を交差するように上げるのだ。
私と妹は口を大きく開けて笑っていた。とてもうれしそうに。
雨が落ち始めた。私は持ってきた線香に火をつけ、雨水と落ち葉をはらって供えた。
十二月十日、十一回目の命日、父が蒸発してから二十八年経った。