「やっぱり、無謀だったのかな。店舗を構えないパン屋さんは、みんなに良さを知ってもらえないのかな。店頭で、香ばしい匂いとふっくらした温かそうな見た目に魅せられ、美味しそうって思われないと、買いたいっていう気持ちにならないのかな。」と私も弱気なことを言った。
「あんたが弱気にならないでよ。」母はいつの間にか会社を経営する役員のように、この私の無謀な計画を大切に思うようになっていた。
思い描いた通りに現実が上手くいかないことは十分わかっているつもりだったが、どうすればいいのかわからなかった。
「あんた、やっぱりそろそろ職安行ったら。」
私の弱気が移ってしまったのか、母まで後ろ向きになってしまった。母の美しい横顔と、病気で筋肉が少なくなった浮腫んだ足を見て、早くなんとかしたい、でもどうすればいいのかわからず、何も言えず何もできなかった。私は自分の無能さが心底悔しかった。
新聞を読み終えた父が「優、チラシ作ってたよね?パパにも見せてよ。」と言うので、私は大量に印刷した中から一枚を父に渡した。
「『あなただけのパン、作ります。』か。」と頷きながら父はチラシを眺めていた。すると、「散歩にでも行ってくるよ」と広告を持ったまま出掛けてしまった。
庭の木々は夕方の太陽の光を浴び、茜色に染まっている。母はソファで寝てしまった。木漏れ日が母の頰をキラキラと照らしている。この木漏れ日が魔法のように母の病気を治してくれないだろうか。
私がまだ都内の会社に通っていたときのような、みんなを寂しげに見送る母を見るのは悲しい。家族の中で、母だけが辛い思いをしてほしくない。みんなで幸せになりたい。
父が散歩から帰ってきた。パン屋で買ったパンを大量に抱え、テーブルの上に広げながら「たまには他の店のパンも食べて勉強するのもいいかもね。」と言った。
「あ、これ…」と母がペンギンの形をしたパンを手に取った。
「これってママが作っていたパンじゃない。動物シリーズ。ママが働いていたパン屋さんのだよね?」
「そうだよ。ママ、辞めて以来食べてなさそうだったからね。」
母はペンギンのパンをパクリと一口食べ、
「変わってないのね。」と言って微笑んだ。
数日後の夕方、電話が鳴った。母はソファ、私は窓辺に座布団を敷いて昼寝をしていたところだった。また勧誘か面倒だなと思いながら、のっそりと起き上がり、いい加減な口調で電話に出た。
「…はい、沢田です。」
「もしもし、パンの注文いいですか。」