「なんだ。私、できるじゃないの。時間をかければできるのね。」と喜び、安心し、久々の達成感に浸っているようだった。
その日以来、よっぽど体調が悪い日でなければ、ほとんど毎朝早起きして、私と父のためにパンを焼いてくれるようになった。私と父が幸せそうに食べる姿が見たい一心にパンを焼く彼女の姿は、私の心を震わせた。
窓から月明かりが優しく差し込んでいる。毎朝少し寂し気に私と父を見送る母を変えられないものか。いっしょに輝きたい。だから、母が好きなパン屋をどうしても開きたいのだ。そんな思いを巡らせているうちに、いつの間にか私は眠ってしまった。
次の日、私はいつも通り香ばしい香りで目を覚ました。
「おはよう」と笑顔の母は、朝陽に照らされ透けそうに儚く美しかった。父は既にテーブルでパンを頬張っている。
「ちゃんと退職取り消しなさいよ」と母は小言を言いながら、美味しい焼きたてのパンをお皿に盛り、ゆっくりと運んできた。
私はいつものように出社したが、昨日の退職を取り消さず、引き継ぎの準備をコツコツ始めた。上司の佐藤が何か物言いたげに私の周りをうろうろしていたが、辞めると決めた今、私がどんなに慰めの言葉を言おうとも虚しくさせるだけなので、必要なことしか話さずに辞めるための仕事に没頭した。
私は無事に引き継ぎを終え、2ヶ月後に退職した。
その間、母は「退職取り消すことちゃんと言えた?」などとよく聞いてきたが、私は曖昧に返事をして聞き流していた。父はその話題には特に何も触れてこなかった。
私がパタリと出社しなくなり、家でパソコンばかりやるようになると、母は最初「次の仕事はどうするの。職安行ってみたら?」とよく話してきたが、私が真剣に作業している様子を見て、だんだんと何も言わず見守るようになった。母自身、私とおしゃべりして過ごすティータイムや、真剣に作業している私の姿を眺める時間を楽しんでいるようだった。
ある日のティータイムに、私は「そういえばね、ママの作ったパンでお店をやりたい件だけど。」と言った。
「あんた、まだ諦めてなかったのね。」と母は笑った。
「本当、後先考えずに無鉄砲な子ね。その気持ちは嬉しいよ。」と微笑んでいる。
「でもママはそんなにたくさんパンを作れないから、パン屋さんは無理だよ。それに、ママはパパと優の喜ぶ顔を見られれば十分だから。」
「お願い。私がママの手と足になって、ママのパンを作るよ。」