母はパン屋でずっと働いていた。もともと働くのが好きで、パン屋の前にも歯医者の助手やスーパーのレジ打ち、企業での事務など、色々な職種にチャレンジしていたが、最後にパン屋と出逢い、それが母にとって天職だったのだろう。パン作りに魅せられた母は、レジやキッチンすべての仕事をマスターし、店長といっしょに新商品を考えるほど積極的だった。「パンはね、すごいのよ。主食にもおかずにもお菓子にもなるの。色んな食材と組み合わせられて、無限の可能性があるの。そしてたくさんの人の希望に沿えて、喜んでもらえるのよ。」と母は言っていた。
学校帰りなどに母の働くパン屋によく立ち寄ったが、そこで見かける母は、家での母とはまた違う雰囲気で溌剌として輝きを放っていた。たくさんの人に自分が焼いたパンを美味しいと食べてもらうことが母のエネルギーになっているようだった。
しかし、私が大学を卒業し社会人になる頃、母は大好きなパン屋を辞めることになった。母はもともと病気を抱えていたが、病気はずっと大人しく母と共存していた。だが、ここ数年で急に表舞台に立ちたくなったらしい。母は身体の自由を少しずつと奪われていった。
精密検査をしたところ、日本に数人しかいない先天性ミオパチーという病気で、遺伝子の一部欠損が原因のものであるということだった。症状は筋ジストロフィーに似ていて、身体の筋肉が壊れていくものだ。健康な人も運動すると筋肉は壊れて筋肉痛になるが、その後新たに筋肉は再生する。しかし、この病気は壊れた筋肉が再生しにくいため、だんだんと筋肉量が減り筋力が低下するのだ。
病状が軽い初期の頃は、杖をついて職場まで通っていた。店長に事情を話し、体を多く使う作業を少なくするよう取り計らってくれた。店の中には、レジやキッチンなどの数か所に店長お手製の椅子が置いてあり、母がどこでも座りながら作業できるようにとの店長の優しさで溢れていた。母はそんな店長にとても感謝すると同時に、申し訳なくて心苦しくも思っていた。
次第に母の病状は悪化し、杖を使って通勤するのにも多くの時間を要するようになった。
ある日、母はレジでパンを袋詰めにする際、手を滑らせてパンを落としてしまった。そのとき、母は下に落ちたパンをどうしても自力で拾うことができず、その場で泣いてしまった。
その出来事で、母はわずかに残っていた自信を喪失し、仕事をすることが怖くなった。そして、店長に辞めたいと告げた。店長は残って欲しいと止めたが、自分の気持ちに呑み込まれた母に店長の呼び止めは届かなかった。
パン屋を辞めてからの母は塞ぎがちで、友人とも会わず、日中はテレビを見て昼寝ばかりしていた。家でパンを作ることもなくなった。
私は就職したばかりの頃、仕事で疲れたときにふと母のパンが食べたくなった。作ってほしいとお願いしたが、首を縦に振ってくれなかったので、私は母から以前教わったレシピで作ってみることにした。なんとか無事に焼き終わり、口に入れた瞬間に鼻から抜ける香ばしい匂いと、ふんわりした触感に淡く甘い優しい味を想像して、パンにかぶりついたが、それはパサパサで飲み込むのがやっとの、とてつもなく不味いパンだった。それを食べた母は、
「ちょっと待ってなさい。」と言い、歩行車を使いながらゆっくりとパンを作り始めた。母は何時間も台所から出てこなかった。慣れないパン作りに疲れ、私はいつの間にか眠ってしまっていたようで、あの懐かしい香ばしい香りで目を覚ました。熱々のふっくらしたパンがテーブルに並び、すっきりした表情の母が座っていた。
私は熱々のパンを取り、甘く香ばしい匂いを嗅いでうっとりとした。外はカリッとしていて、中はふんわりと少ししっとり。久々に食べた母のパンで幸せに浸っている私を見て、母はにっこりとした。