「やっ!」と短い奇声を発してしまったが、周りが既に騒がしかったので、大して目立たなかった。やった、目標達成した。今月は残業代が基本給と変わらない程だったので、余裕でクリアしていた。ひとり気分が高揚した私は、佐藤のところへ小走りで行き、
「突然ですが、一身上の都合により退職します。」と告げた。佐藤はポカンと口を開け、フリーズしていた。私も自分の大胆な行動にびっくりした。
残業して、家に着いたのは22時を過ぎていた。家の玄関にはほんのりパンの甘い匂いが残っている。「お疲れさま。残業大変だったね。」と父は言い、台所でパスタを茹でていた。茹で上がったパスタをザルにあげるとき、湯気が立ち上がり、父の顔をほんのり湿らせていた。
母はリビングのテーブル席でお茶を飲みながらテレビを観ていた。
「あらおかえり。疲れたでしょう。」
「うん。」と言い私もテーブル席に座り、父の作るパスタを待った。
「そういえばね、会社辞めることにしたよ。」とさらりと言ってみた。
「え?何の話?」と母は話がよく飲み込めていないようだ。
「だからね、今勤めている会社を辞めるよ。」
「…どうしたの?いきなり。」と母の笑顔が凍りつく。
父が台所からパスタを運んできた。
「何で辞めるのかちゃんと話しなさい。」母は少し怒り口調になった。
「私、パン屋を開く。」と私が言うと、父も母も同じような顔で驚いたあと、ふたりで顔を見合わせた。
「パン屋を開くって言っても、簡単にできるわけじゃないのはわかっているよね。店舗、設備、作る技術、経営する能力だって必要だよ。それに従業員も。」と父はなだめるように言った。
「技術はママが居るじゃない。それにお金は1000万円あるから、それでなんとかするつもり。」と私がさらりと言うと、母は驚いた表情でこちらに目を向ける。
「1000万円じゃ、何もできないものだよ。もう少し計画的に考えた方がいいよ。」と父は困った顔で言う。
「あんたは昔から本当に無謀で無計画ね。」と母は呆れたような声で言い、小さく息をついた。
「とにかく、退職の話はなかったことにしてもらいなさいよ。もう寝なさい。」とピシャリと母は言った。
布団に入り電気を消した。だんだん目が慣れてきて天井の照明がぼんやりと見える。無謀で無計画、その通りだと思う。だけど、能力がない私にはこんな風にめちゃくちゃに足掻くしかなかった。