八重ちゃんは旦那様が目を覚まさないように、そっと蚊遣りに火をつけた。タオルケットをお腹にかけてやった。そうして黙って二階に戻っていった。清蔵さんが行っちゃだめですよと引き止めたが、寂しい背中が遠ざかっていくばかりだった。
このとき、実は旦那様は目を覚ましていたのである。何だか気まずいから寝たふりをしてしまった。不器用の手本みたいな人である。そして八重ちゃんも、旦那様が狸寝入りしていることに気づいていた。急に呼吸が不自然になって芝居臭くむにゃむにゃ言い出すのだから、気づくに決まっている。なんとなく歩み寄れそうだったのに、なんとなくすれ違ってしまった。そんな2人であった。
夕飯はおむすびを握って、台所に置いておいた。八重ちゃんが台所に立っている間は旦那様は縁側から出てこない。八重ちゃんが書斎に戻ると、旦那様は忍び足で出てきて、手を合わせて食べている。清蔵さんは馬鹿らしくなったのか、裏の廊下で居眠りをしている。
お互いに気をつかって、顔を合わせないままで生活が成り立ってしまっている。これが一番危険な状態なのだと私は知っている。こんなふうに離ればなれになってしまった家族を過去にも見たことがあるが、私には何もできなかった。どうにかして2人に仲直りしてほしいと思うのだが、私にはどうすることもできない。夏の暑さに負けぬように、日陰をつくるくらいが関の山である。
夜が更けても、八重ちゃんは眠れなくて窓の下の花壇を見つめていた。今日は水をあげるのを忘れてしまった。かんかん照りだったから、明日は早起きして水をやらなければいけない。掃除もいい加減に片付けてしまったし、やることは山ほどある。風船がしぼむように、ため息がふーっともれていく。
そのときである。塀の上をゆらゆらと、小さな光が飛んでいた。蛍だろうか。3つ4つ、5つ6つ。光は一度立ち止まって、庭の土上に吸い込まれて行った。不思議なこともあるものだと八重ちゃんが見ていると、縁側のほうでドタバタ音がして、黒いかたまりが飛び出していった。続いて旦那様が棒切れをもって、裸足で庭に飛び降りた。ようやく八重ちゃんは、そのいくつかの光の主が野良猫であることに気づいた。
「また猫をいじめようとしてる!」
なんと懲りない人なのだろう、八重ちゃんは怒り心頭で立ち上がったが、そのとき聞こえてきたのは夜をつんざくような旦那様の怒声であった。
「八重の花壇に何をするか!」
少々芝居臭い気がしなくもないが、それで八重ちゃんは昨日からの全てのことを理解した。リベンジに燃える野良猫たちは、血気盛んに清蔵さんにとびかかる。清蔵さんも負けてはいない、花壇を守りながら老齢であることを感じさせぬほどの俊敏さで敵を迎え撃つ。旦那様はどうだ。八重ちゃんがハラハラしながら見ていると、旦那様はなにやらヒラヒラしたものを振り回している。ハタキだ。へっぴり腰でハタキをヒラヒラ振り回しているものだから、お腹を壊した新体操の選手みたいなことになっている。ホウキを使うとまた八重ちゃんに叱られるから、攻撃力の低そうなハタキを選んだのだろうか。
「八重の花壇は私が守るぞ!」