三十五歳だった達也の病気の進行は早く、何もできないまま、半年後に他界した。
悲しみに暮れる沙織であったが、美知と二人で生きていくために、働かなければならなかった。
沙織は、今後の生活を考え、なるべく安定した仕事をしたいと思い、自ら退職しておいて気まずい思いもあったが、元の会社に復帰できないか打診してみた。
幸い沙織の元上司は、まだ同じ部署におり、沙織の復帰を後押ししてくれた。
ただ、沙織が働くためには、まだ三歳の美知をどこかに預けなければならなかった。
問題は、美知の預け先だった。沙織の両親は北海道におり助けてもらうことは難しかった。また、亡くなった達也の両親は名古屋で洋食屋をやっていて、忙しく働いていた。
沙織の住む町の自治体でも待機児童の解消は、解決すべき問題の上位にあり、美知を保育所に入れるには、時間がかかりそうだった。
会社には、企業内保育所が設置されていたが、美知を会社の保育所に預けるということは、朝、美知を連れて通勤電車に乗らなければいけないということであり、満員電車の殺伐とした雰囲気の中に美知を連れ込むことは、できれば避けたいと考えていた。
しかし、仕事への復帰を遅らせることは、経済的にも、復帰を後押ししてくれた上司の立場的にも、避けたかった。
沙織は、会社の保育所に美知を預けることを決心する。通勤電車に美知を乗せることはためらわれたが、会社の保育所ならば、通勤時間も含め美知と長い時間一緒に過ごすことができると考えたのだ。
沙織は、美知と一緒の出勤初日から、トラブルに見舞われた。
沙織の乗る駅は、私鉄のターミナル駅で、都心に向かう電車は、ほぼ満員の状態で到着する。その駅で別の電車に乗り替える乗客が掃き出された後、列を作って待っていた乗客がなだれのように乗り込んでいくのだ。
初日、美知は、駅に着くと、目を吊り上げ無言で動いていく人の波を恐れ、エスカレーターの手前で沙織のスカートを掴み、立ちどまってしまった。後ろからきたスーツの会社員が、急に立ちどまった沙織にぶつかり、舌打ちして睨みながら追い越していった。沙織が美知を見ると、美知は怯えた表情をして、目には涙があふれている。沙織は美知を抱き上げ、脇に避けて美知を強く抱きしめた。
沙織は後悔していた。やっぱり地元の保育所を探そう。待つことになるだろうが、そのほうが、美知のためにはいい。
美知、ごめんね。やっぱり無理だよね。こんなに人がいっぱいいて、怖いよね。美知は沙織の気持を察したのか必死に泣くのをこらえているようだった。
「ママお仕事行かないと。パパと約束したんでしょ。美知はだいじょうぶだよ。ほら、ぐりぐりしたよ」
美知は、両方の掌を目にあててこすり、涙を拭いた。
沙織は泣きそうになったが、泣きたいのを必死にこらえている美知の前で涙を見せるわけにはいかない、と笑顔を作った。