今、手にしている以上のしあわせを求める力は、この身体のどこにも残っていない。こっちの方がしあわせだから、という誘いに応じるのが、どこか億劫だ。変かしら、とも思う。でも、もし間違っていたとしても、それくらいは自分に決めさせてほしい。
派手やかではないけれど、いつまでも伸び続ける――。
あの日、我が子の誕生を知った夫の想いが、三十年の隔たりをきちんと繋いでくれる。それだけで、充分にしあわせだ。過去と現在を繋ぐ想いは、必ず未来にも届くだろう。そう願う竹子の頭に、まだ小さい孫娘の顔が自然と「浮かんで」くる。
なっちゃんが産まれたのは、夫の一周忌の頃だった。そのタイミングを「生まれ変わったみたいだ」と言う親戚もいたが、竹子は強い違和感を覚えた。なっちゃんは、誰かの生まれ変わりなどではない。そういう考え方は、哀しい。
「生まれ変わられても困るのよね」
布団の中から無言のまま語りかける。
立ち上がれば触れることのできる遺影に、ではない。決して触れることのできない夫に、私の願いはちゃんと届いているだろうか。
「もうすぐそっちへ行くんだから、勝手に生まれ変わったりしちゃいやですよ」
相当頭は冴えてしまったらしく、目を閉じてから三十分は経ったはずなのに、まだ眠くならない。上体をゆっくりと起こし、竹子は布団から抜け出した。暗がりの中、慎重に手探りをしつつ台所用の小さい蛍光灯だけ点ける。パチパチという音をたて、弱い光が足元を照らしだした。
薄明かりだけを頼りに玄関へと進み、なっちゃんが忘れていったピンクのスニーカーを手に取る。実際持ってみると、驚くほど軽い。子供用でも今は洒落たものがあるのよね、と感心をしつつ様々な角度から眺めてみる。いつかは履かれなくなる、と思えばこの軽ささえどこか儚い。でも、と竹子はそれを手にしたまま、部屋へと戻る。
でも、このスニーカーが小さくなったなっちゃんは、また新しい靴に履き替える。時が経ち、その新しい靴も小さくなれば、また次の靴を履く。その繰り返しだ。決してなっちゃんが消え去るわけではない。
弱々しい光が隅々まで届いた部屋の中、バッグの中から懐紙を一枚取り出し、再び玄関へと引き返す。そして備え付けの靴箱の上に懐紙を広げ、可愛い孫娘の忘れ物を乗せてみる。
薄明かりに溶けこんでしまいそうな淡いピンクを、ずいぶんと長い間、竹子は見つめ続けていた。