生前、祖父は僕たちが長期休みに入り、里帰りする度、
「本はいいぞ。自分の人生を豊かにしてくれるからな」
といつも言った。割と無口な性分で、幼少期の僕にとっては黙々と創作をするその後ろ姿が祖父の存在全てだった。その頃の僕は小説なんかより、クラスの友だちが貸してくれた「学生探偵クローバー」というマンガを読むのに夢中だった。同じ推理ものであっても興味を惹かれる度合いは全く違った。
そんな祖父との記憶の中で、最も印象的なのは本棚に関するものだ。祖父の書斎にあったその本棚は、床から天井までの壁一面に設置されたとても大きなもので、ガラスの扉から覗き込むと見た事もないような分厚く美しい装丁の本が秩序良く並んでいた。今思えば祖父のコレクションだったのだろう。
その中にはもちろん、祖父の小説もあった。その頃はまだ漢字も読めなかったが、漆黒の背表紙の上、銀色の刺繍でキラキラと誇らしげに収まっている祖父の名前であるだろう文字に、幼い日の僕はドキドキした。
僕は本を読むのは嫌いな方だったが、その本棚の前で時間を過ごすことは多かった。何故かは分からないが、古い紙の香りと祖父のふかすパイプの煙が輪っかになってゆっくりと浮かんでは消えて行く様子を見るのが好きだった。思い返せば祖父と言葉を交わす事は少なかったが、同じ部屋で時間を過ごす事は案外あったのかもしれない。
そういえば、そんな祖父の本棚の中に僕にも読める作品が一つだけあった。タイトルは記憶に無いが、黒いぶち猫を抱いた少年が、色鮮やかな花畑に立っている表紙のその本は、大人向けの小難しい推理物が多い祖父のコレクション棚の中で異彩を放っていた。
主人公は川の流れる町に住む素朴な少年で、人情深い町の人々を描いた作品である。毎回些細な事件や不思議な出来事が起こったりして、少年は町の人と力を合わせて解決する。推理ものに比べると、ハラハラドキドキ度合いはたいしたことないのだと思うが、彼に自分を重ね合わせて小さな冒険に出掛けるのは随分楽しかった。記憶は定かではないが、僕が本を読んでいるのを見つけると、祖父はただ静かにニコニコと笑っていたように思う。珍しいなと思って見ていたのかもしれない。
そんな祖父との些細な交流も小学校・中学校と僕の世界が広がって行くにつれて、除々に減って行った。家族は盆や正月と行った休みに里帰りしていたが、僕は部活動の練習が忙しく、話さない時間が増える毎に、再会することが億劫になった。
祖父の葬儀から1年程が経ち、祖父がいない世界が何となく当たり前になった頃、僕は大学受験を迎え、進学を機に一人暮らしをすることになった。
大学は自宅からも通える距離だったが、自分自身も両親も自立に向けた良い機会だと思っていた。
「コタ、どの辺りに住むかもう決めたの?」
夕食の準備に一段落付けた母が、食卓の向かいに座りながら話しかけてくる。母は幼い頃から変わらず僕を愛称で呼ぶ。
「まだ。明日どっかの不動産屋でも覗いてみようかと思ってるけど」
僕はテレビのバラエティー番組に注意を向けたまま返事をする。
「そう。お母さん、京神沿線なんてオススメだけど」
僕は母の顔を見る。
「京神線って私鉄だっけ?不便じゃないの」
「不便ってことはないわよ。下町情緒残る良い駅が多いのよ。うちからもそんなに離れていないし……いいんじゃない?お母さんの初めての一人暮らしも京神線だったなあ。七福町って駅だったんだけど」
「ふーん」