邦和は立ち上がり、キッチンへ向かった。シンクには使用済みの鍋やフライパン、菜箸やボウルが山盛りに積まれている。邦和はその光景を横目に、食器棚から茶碗を出して炊飯器を開けた。足元の米びつの中をふと見ると、新しい虫よけが置かれている。そろそろ取り換えようと思っていた所だったのだが、佳織が替えてくれたのももちろん初めてだ。一体妻に何が起きたのだろうかと、邦和の謎はさらに深まった。邦和は手際よく、ふたつの茶碗にご飯をよそい、リビングへ戻った。邦和から茶碗を受け取ろうと椅子から立ち上がった佳織が、鼻と口を押えてしゃがみこんだ。
「大丈夫!?」
邦和は佳織の様子に驚き、やはりまだ体調が悪いのだ、と心配になった。
「……匂いに敏感になるって、本当なのね」
佳織はしゃがんだまま、辛そうな表情で言葉を絞り出す。
「え?」
邦和は一瞬、佳織の言葉の意味がわからなかった。
「今、7週目だって。二ヶ月」
その言葉を聞いた瞬間、邦和の手から茶碗が滑り落ちた。
「あー! 勿体ない!」
佳織は慌ててこぼれたご飯を拾おうとするが、やはり白飯の湯気がダメらしく手を放し、近くにあったマスクを素早くつけた。メラミン食器のため、幸い茶碗は割れていない。
「本当に?」
邦和は、しゃがんで佳織の手を握った。佳織が、はにかみながら頷く。
「体調が悪かった日、もしかして、と思って病院に行ったら、やっぱりそうだった」
子どもができた。その嬉しい知らせに、邦和の心は舞い上がった。と同時に、なぜ佳織が料理を作ってくれたのか、再び疑問が湧いた。本当に嬉しいことがあった時、人間の頭の中は意外と冷静だ。
「子どもが産まれるんだって思ったら、自分の子に手づくりのごはんを食べて欲しいなって、なぜか分からないけど、急にそういう発想が浮かんできたの。私は邦和みたいに料理が上手じゃないけど、向いていないことでも、やってみたいな、って思った。自分でも不思議なんだけどね」
佳織は、恥ずかしそうにつぶやいた。
「佳織……」
「だからこれからは、時々料理もしてみようかなと思う。お腹の子がどんな食べ物が好きかわからないから、まずは、邦和の好きなものを作ってみました!」
佳織はそう言って笑った。
「ねぇ、とりあえず食べようよ。つわりで気分は悪いんだけど、お腹は空いているの」
邦和は席に着いて、佳織の作ってくれた肉団子を頬張った。味の感想は顔に出さないようにしながら、いつまでも幸せを噛みしめていた。