8月期優秀作品
『まだ見ぬあなたへ』手塚巧子
「そんな顔しなくても良いでしょう」
リビングのダイニングテーブルで向かいに座った佳織は、邦和を見て口をとがらせた。妻の佳織は外から帰宅するとすぐに顔を洗って化粧を落とすので、白いタオル地のターバンを着けておでこを出した佳織の姿も、邦和はもうすっかり見慣れている。見慣れないのは、目の前の光景だ。いつも二人が食事をする馴染みの食卓には、料理がずらりと並べられている。
しまった、顔に出ちゃったか。邦和は反省した。もう三十四歳の大人だから、思ったことをそのまま口にしないのはもちろん、顔に出さないことにも十分な注意を払ってきたつもりだ。結婚して二年目。優しいが感情的になりがちな佳織は、怒るとけっこう怖い。平穏な結婚生活を送っていくためにも、邦和は佳織と話す時にはできるだけ、ポーカーフェイスを保つよう務めてきたつもりだった。が、まだまだ修行が足りないらしい。
だが、ダイニングテーブルと佳織を交互に見比べる邦和は、驚きでなかなか次の言葉が出てこない。
有名大学を卒業し、ベンチャーのウェブ制作会社の営業職として働いている佳織は間違いなく、社会人としては優秀な部類に入るだろう。去年の秋に副部長に昇進したことが、それを物語っている。社内の女性管理職は、佳織が初めてだそうだ。
「うちの会社は、人数も少ないし創業年数も短いから」
と言いながらも、時折リビングのソファに腰かけて仕事の資料を読む佳織の表情からは、仕事へのやりがいや熱意というものが、これでもかというくらい滲み出ている。
邦和と佳織は、邦和の学生時代の友人に連れられて行った飲み会で、三年半前に出会った。邦和の出身地が長野、佳織の出身地が山梨と近かったことから意気投合し、出会ってから三ヶ月後に、邦和から告白して付き合うことになった。
佳織がどうやらあまり家事が得意でないことに、邦彦は佳織と付き合い始めてから、わりと早い段階で気がついていた。まず、佳織のひとり暮らしのアパートには、洗濯機が置かれていなかった。「置く必要がない」というのが佳織の考えで、仕事が休みの日になると、コインランドリーで衣類をまとめて洗っていた。まめに部屋の掃除をしなくていいようにと、佳織の部屋には必要最小限のものしか置かれていなかった。初めて佳織の部屋に遊びに行った時、女性の部屋らしからぬその殺風景さに、邦和は内心びっくりした。
ただ邦和自身、「女性は家事が出来て当たり前」というような、偏った古い考えは持っていなかった。それに、佳織が家事を苦手としていることは、邦和が佳織を想う気持ちには全く関係がなかった。
「人にはね、向き不向きがあると思うの」
独身時代、邦和のマンションや佳織のアパートの部屋で二人が一緒に過ごしている時、芸能人が家事のスキルを披露する番組などが流れると、佳織はひとりごとのように、そうつぶやいた。
「いいけど私、料理は苦手よ」