カーシェアリングで借りた車で遊びに行った千葉の海で、邦和がプロポーズを申し込んだ時、佳織は海に漂うヨットをじっと見つめたまま、そう答えた。付き合っている間、邦和が佳織に料理を作ってもらったことは一度もなかった。
「結婚は共同生活だから、二人で快適に過ごしていけるように、家事も努力する。洗濯機の回し方も覚える。でもね、料理だけは期待しないで欲しいの」佳織はそう続けた。
邦和はプロポーズを受け入れてもらえたことに安堵したが、佳織のその言葉には何だか拍子抜けした。と同時に、佳織らしい返事だな、とも思った。
「料理のことなんだけど、何か作りたくない理由でもあるの」
帰りの車中で、邦和は助手席の佳織に尋ねた。佳織はしばらく黙りこんだ後、思いつめたような表情で口を開いた。
「小学校の時、家庭科の調理実習でポテトコロッケを作ったら、同じ班の男子に『お前が丸めたコロッケ、岩みたい』って言われた」
「高校生の時、初めて付き合った野球部の彼氏にお弁当を作ったら、彼氏がお腹を壊して県大会の予選に出られなくなった」
「大学生になってひとり暮らしの友達の家に遊びに行った時、泊めてくれたお礼に唐揚げを作ったら、食べた友達の歯が欠けた」
佳織は、過去の出来事を淡々と語り続けた。途中で学生時代の彼氏の話が出てきた時には少し嫉妬心が湧いたが、佳織が料理をしないと決意するに至ったエピソードの数々を聞き終わる頃には、邦和の心には、佳織に対する同情心すら芽生えていた。
その日からほどなくして、互いの両親への挨拶などを済ませ、二人は入籍した。ともに住んでいた一人暮らしの家を引き払い、二人の職場の中間地点にある1LDK のマンションへ引っ越した。
プロポーズの時の返事通り、佳織はすぐに洗濯のやり方を覚えた。結婚祝いとして佳織の両親から贈られたドラム式洗濯乾燥機の中で二人分の衣類がくるくると回るのを、佳織は不思議そうに見つめていた。
ある日の休日の朝、邦和は焦げ臭い匂いで目が覚めた。寝室から出て、匂いのするキッチンの方へ歩いていくと、悲しそうなまなざしで何かを見つめるパジャマ姿の佳織が立っていた。視線の先のフライパンには黄身がただれて全体が真っ黒焦げになった目玉焼き、オーブントースターの中には同じく黒焦げのトーストが二枚、床には、何か事件でも起きたのかと思うような勢いで赤い果肉が飛び散り、いびつな形に切られたトマトが、まな板の上に転がっていた。
「それで、料理はお前の担当ってわけか」
同僚の山口が、缶ビールを飲みながら隣の席でつぶやく。金曜日の夕方、東京行きの新幹線の座席は、邦和たちのような出張帰りのビジネスマンで溢れている。システムエンジニアをしている邦和は関西支社で研修を受けるため、月曜日から今日までの五日間、大阪に滞在していた。