「ジュムゲ、ジュムゲ……」
落研に所属している布袋太郎こと凹亭絶壁は、寿限無をジュムゲと言ってしまうほど落語が苦手だ。祖母譲りの後頭部は絶壁というより凹んでいる。
脳には落語をつかさどる落語中枢という部位があり、そこが凹んでいるから前座噺さえ覚えられない、という新作落語をOBが作ったほど凹んでいる。祖母がバカにされたような気がした凹亭は、OBと口喧嘩をしたばかり。
そんな凹亭、実は超の付く天才で、将来、ハーバード在学中にベンチャー企業を起ち上げ、グーグルに売り払った後、政権与党の最年少幹事長となり、総理を操り人形のように扱う平成(の次の元号)のラスプーチンと呼ばれるようになるが、それは先の話。今はまだ寿限無に苦戦中の十五歳。
祖母の誕生祝いに一席ぶつためにはもっと練習が必要だ。去年はポリデントをプレゼントしてえらく喜ばれた。あの笑顔をもう一度、と今日も喉をフル回転させる予定だ。
長屋住人が家賃を待って貰うように秋波をビンビン送り、飴野はツルツル案を申し出た。
凹亭はおもむろに羽織を脱いで、長屋の大家のような口ぶりで応じる。
「私ゃ端から坊主頭ですからね。ツルツルで困ることなんてありゃしません。それにね、お天道様のように明るいシトが学校に来てくれなきゃ、皆が困っちまうでしょ? だからツルツルに賛成するのはやぶさかじゃないんです」
落研をあとにした飴野は「長久命の長助」まで寿限無を言ってみた。簡単だった。ついでに黄金餅の道中付けを「随分くたびれた」まで言ってみた。造作なかった。ツルツル案が可決したら落語を教えてあげよう、と飴野はジンにささやいた。
伊佐奈美は中学三年にもなって一度も美容院に行ったことがない。にもかかわらず、二週間に一度の割合で散髪している理由は三つある。
一つ目は、技術向上の努力を惜しまない理容師の父親のため、奈美が進んで実験台になっているから。二つ目は、十円禿げを他人に見られたくない奈美のため、父親が散髪しているから。三つめは、経済的だから。
ちょこんと置かれたシラミとりシャンプーだけが互いの優しさを知っている。
岩戸中の学区内には例のカリスマを含めた四件の美容室があり、理容室は奈美の父親が経営するバーバー伊佐のみ。バーバー伊佐を利用している岩戸中生は長嶋と凹亭、そしてジンだけ。それほどバーバー伊佐はダサいと思われている。これが十円禿げの原因であった。
「目立ってるぞ、禿げ。いっそツルツルにしろよ」
ジンがつっけんどんに言う。
奈美は怒りを抑えながらかぶりを振った。
「ツルツル案が可決されたら、バーバー伊佐を学校指定床屋にしてあげるよ。美容師より理容師の方が剃刀の使い方が格段に上手いからね」
奈美をなだめつつ、ジンをたしなめるように飴野が言う。
奈美は静々と首肯して立ち去った。
「照子ちゃんがいなかったら伊佐さんを好きになってたかも」
奈美の背中を眺めながら言う飴野に、ジンはムッとした表情を返した。
ジンが奈美に惚れている。気づいた飴野は、思いがけず被支配的ポジションから解放されることになった。