ここまですんなり上ってきておいて、重いも何もないだろう。神様は微笑みを浮かべたまま、困惑したような目で言った。
「そちらのカバン、そろそろ、お捨てになりませんか」
「カバン?」
「ええ。中身、処分なさってはいかがでしょう」
身ひとつで居るはずの私に一体何を言っているのか……と、自分の右肩に、一抱えもある立派な黒革のカバンが掛けられているのに気がついた。体勢を変えて、カバンの中身を確かめる。恐る恐る片手を離して金具をつまみ、勢いよくスライドさせる。みりみりと開いたカバンの中には隙間なく札束が詰まっていた。
― 死んだら、何でもありだな。
銀行強盗でもしてきたばかりのようなカバンを前に、やはり、確認しないわけにはいかなかった。
「……私のですか」
「ええ」
訝しく、しかし誇らしく、私は驚きをもってカバンを抱き寄せる。これはきっと、母親が貯めてくれていたお年玉と仕事に就いてからの定期積立と、こっそり続けていた為替の利益と、学資保険の他にささやかに貯めていたへそくりと……もしかすると、今回下りた生命保険の分まで入っていたりするのかもしれない。
「これ、全部私のなんですか」
「ええ」
「何か、感慨深いものがありますね」
「ええ」
私は、たまらずまくしたてた。
「こんな大金、初めて見ました。結構、頑張ってたんですね。びっくりしました。これだけあるなら、もう少し生きてるうちに使いたかったです。はあ。ワンピースもブーツも我慢しなければよかった。ほら、冬は冬でバーゲンがあるじゃないですか。だから、それまで待っていようって、一旦諦めてしまったんです。薄紫の、きれいなブーツが気になっていて。足が小さいから、ちょうどいいサイズというのがなかなか無くて。それこそ、見つけたときに買わなくちゃなんですけど、まだちょっと高いかなあって、我慢して。ワンピースもね、試着すると欲しくなるから、見るだけにして。自分のものより、娘のものを揃えてあげたいなって思うことが増えたんですけど、久しぶりに、こう、ぐっとくるようなデザインだったんですよね、両方とも。ああ、でも、買っておけばよかったなあ。せめて試着してみたらよかったなあ。あ、だけど、すぐ死んでしまうんだったら意味ないですよね。あはは。しかし、貯蓄も時々ちゃんと確認しないとだめなんですね。まさかこんなに貯め込んでたなんて。全然把握し切れてなかったです。知らなかった。びっくりですよ」
興奮していた私に、神様はカバンを指差し静かに言った。
「ですが、そろそろ、お捨てになりませんか」
「え。あ。ああ、ああ、なるほど。そうか……そうですよね、向こうでは、お金って、必要ないですもんね」
「いえ、必要ですね」
「え」
「それなら……」と、言いかけたところで、神様が続けた。
「そのお金は、全てあなたの財産ではありますが、あなたのご家族のものでもあるのです。あなたは死んでしまいましたが、お金は、死んではいません。もちろん、上に持っていくことは出来ますが、果たして、あなたのご家族にとって、それが良いことかを考えてみてください。旦那様がご健在であることは存じておりますが、地上に残されたご家族のみなさんには、それだけの財産がいっぺんに無くなってしまうと、やはり、お困りになるのではないでしょうか。もっと言えば。ほら、この左腕。見てください。既に震えているでしょう。そろそろ、限界なんですよ。わたくしにはあまり力がなく、あなたは、どうしてなかなか重いときている。そのカバンを手放さずにいらっしゃると、さらなる重さで、このまま上昇していくどころかあなたを落としてしまうかも知れません」