「さあね。なんだと思う?」
教えてほしいのはこっちなのだ。私は連絡帳を奪い返しデスクに放った。殺風景なオフィスの中、鮮明なモンシロチョウが強烈な異彩を発している。
今月の担当が馴染みのカメラマンで助かった。昼過ぎには差し替え写真が到着、モデル事務所の掲載許可も得てなんとか死線は乗り越えた。あのまま誰も気づかず刊行されていたらと思うとぞっとする。このご時世だ、ネットでの炎上は免れなかっただろう。
18時30分。一段落ついた私はコンビニのサンドイッチをかじりながら、デスク上のジャポニカをなんとはなしにめくっていた。
「き・よ・う・は、プ・ー・ル・が、」
蒔名は連絡帳を探しているだろうか。先生に叱られはしなかっただろうか。朝から柄にもなく息子のことを考えてしまうのは、誤って持ってきてしまった連絡帳――あるいはその残留思念のようなもの――のせいに違いない。
「つ・め・た・か・つ・た、か……」
昨夜は気がつかなかったが、一見解読不能な記号も時を経るにつれだんだんと日本語の体を成しているのがわかった。4月のページはてんで意味不明だが、7月になると多少は読める。つまり上達しているのだ。
(上達もなにも、あの子2年生のときはそこそこきれいな字だったはずなんだけど――)
「愛ちゃん、お疲れ。大変だったな」
デスクの左端にアイスコーヒーが置かれ、私は顔を上げた。
「郷田さん、今朝はすみませんでした。私の確認が漏れてました、本当に助かりました」
「ふふふ、子供がふたりいるようなもんっしょ」
副編集長はみーちゃんのデスクを顎でしゃくった。
「まったく子育ては家だけにしてほしいですよ」
私は力なく笑ってコーヒーに口をつける。しかしあらためて考えると大卒2年目のみーちゃんは私の14歳下、彼女の13歳下が蒔名である。みーちゃんの年齢は私より息子に近いという事実に少々驚いていると、郷田さんが私の手元を見て目を細めた。
「ん。なんじゃそりゃ?」
「あー、連絡帳です。ウチの子の」
「ふうん」
ノートを一瞥した副編集長はミミズの大群を見てにやりと笑った。
「愛ちゃんちの子、蒔名くんだっけ? 男だったよな」
「そうです。小学校3年」
男子はわけわかんねーことばっかするからな、と郷田さんは徹夜ハイのテンションで嬉しそうに言う。
「あとさ、男の子ってヘンな匂いするだろ?」
「ヘンな匂い、ですか」
脂ぎった髪の毛を掻きむしった副編集長は窓に目をやった。雨足はまだ弱まっていない。
「俺んとこさ、ひとり目娘だったじゃん? 今ね、ふたり目、下の息子が5歳なんだけどさ、くせーんだよ。俺びっくりしたもん。男の子って、くっせーの」
「そうなんですね」
私の生返事を疑問の意だと誤解したのか、郷田さんの口調が少し熱を帯びた。
「マジよマジ。娘のときは無臭だったんだけどさ。なんつーかな、髪の毛とか海みたいな匂いがすんだよ、男って。愛ちゃんもびっくりするよ。ほんとにくせーから」