「結菜、お父さんったら今日会議なのに寝坊しちゃったのよ。ほら、あなた、もう行かないと」
「そうだな」
父は時計を見て、勢いよく席を立ちあがり、玄関へと向かう。疲れて寝坊してしまったのかなと思い、父の背中に「いってらっしゃい」と声を掛けた。
「おお、そうだ、忘れるところだった」
急に足を止め、父は振り返り、私の方を向く。突然のその行動に驚き、私は目を丸くした。
「結菜、いってくるな」
ぽんっと父は私の頭を撫で、母と同じ顔をして微笑んだ。
そして父は玄関を出る前にもう一度大きな声で「いってくる」と言い、玄関の扉を閉めた。
父が触れた部分に自分の手をのせ、目をぱちくりとさせる。
いつも父はあんなことをしない。ああ、そうか。母がきっと何かを言ったんだ。
「おはよー」
大きな欠伸をしながら妹がリビングに入ってくる。私は小さな声で「おはよう」と言って、洗面所へ向かった。
父も母も「学校はどうなの?」なんて聞かない。きっともう私のことはお見通しなんだ。それにもかかわらず、何も聞かない。私はその優しさに今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
鏡の中の自分を暫く見つめる。とても酷い顔だ。隈もあるし、吹き出物もある。何より表情に生気が感じられない。
私は深く溜め息を吐き出した。これから、どうしよう。
「お姉ちゃん、ちょっと失礼!」
後ろから割り込むように妹が顔を洗い始め、私はふらりと後ろへ下がった。
私は用意なんてしたくない。学校に、行きたくない。
「ふーさっぱり。あ!ねえお姉ちゃん、今日の放課後、暇?暇でしょ?新しく出来たクレープ屋さん付き合ってよ!」
鏡ごしに目を合わせ、妹はきらきらと目を輝かせて笑った。楽しそうな妹と同じように私は笑えない。鏡の中の妹と私はあまりにも違いすぎて、私は目を逸らした。
「友達と行ってきなよ」
「え?どうして?あたしはお姉ちゃんと一緒に行きたいの!」
「どうして?私と行っても」
楽しくないよ。そう言いそうになって私は口を噤んだ。私、いつの間にこんなに気持ちが沈んでいたんだろう。このまま心も外見も醜くなっていってしまうのだろうか。そんなの、私は望んでいないのに。
「お姉ちゃん、私に付き合ってよ。ね?お願い」
私はちらりと鏡の中の妹を見た。一瞬だったが、心配そうな寂しそうな顔をしたのを私は見逃さなかった。妹も、私のことを勘づいているんだ。
私は静かに頷いた。
「ありがとう、お姉ちゃん!放課後楽しみにしてるね!」
妹の顔を見れなかった。妹はリビングへ戻って行く。
私はもう一度、鏡の中の自分を見つめた。いつまでも行きたくないだけじゃ、駄目だ。私は今、どうありたいのか。
母の柔らかく微笑むその表情、父の母に似た微笑、大きな手、妹のきらきらした表情と寂しそうなその表情。順番に思い出して、私は私を真っ直ぐ見つめる。
鏡の中の私の瞳には確かに小さな光が灯っていた。
「結菜、パンとご飯、どっちがいい?」
「お母さん」
リビングに戻った私に母が声を掛けてきたのと同時くらいに私は母を呼んだ。母は不思議そうに首を傾げながら「どうしたの?」と聞く。
「帰ってきたら、私の話を聞いてほしいの」
私は寝巻の裾をぎゅっと握り、母を真っ直ぐ見つめながらしっかりと声を出した。不安で不安で、私の体を駆け巡る恐怖。その怖いものを取り除いてくれるように、母は優しい声で、言った。
「わかったわ。カフェラテを用意して待ってるわね」