水が嫌いなアカネが水撒きを終えたのを見届けて出てきた。アカネは五歳の柴犬で二代目の犬だ。月に二、三度しか会えない康之も、年に二回しか会えない和人のことも敦子たちと同じように家族だと慕っている。温厚で人懐こいがベタベタしないアカネは、当たり前のように家族としてそこにいる。
大切なアカネが蚊に刺されるといけないので、蚊取り線香に火をつけ、デッキの犬小屋の近くに置いた。夕方になると洗濯物を取り込み、水を撒いて、それからデッキと室内に蚊取り線香を置く、それが敦子の夏の日課になっている。デッキに置くのはペット用の大きな巻の蚊取り線香だ。アカネ用はいつもこれに決まっている。朝まで愛犬を守ってくれると信じて、初代アカネのときから長年こればかりだ。室内には、もう少し小さい巻のものを金魚型の陶器に入れて置く。金魚の口からプクプクと煙が上るのが愛らしい。
「香取線香の匂いがいいね」
水を撒き終えた康之がデッキに腰掛けた。敦子も座る。
「夏が来たって感じがするね。大阪では蚊取り線香は焚かないでしょう」
「五階だからね。蚊は出ないよ」
「そう。都会はもともと蚊が少ないのかもね、きっと」
康之は今しがた自分が水を撒いたばかりの庭をじっと見ている。炎昼としかいいようのない時間が過ぎ、やっと水を吸った庭を風が静かに撫でている。康之の背中の右肩から少し離れたところを、蚊取り線香の煙はゆっくり横波を作りながら上る。ゆっくりゆっくり、だんだんに薄く広がってゆく。
「こんなふうに水を撒いて、縁台から蚊取り線香の煙がゆっくり上って、この景色落ち着くなあ。一人暮らししたことなかったから、足が地面についていない生活は結構疲れる」
やっぱり単身赴任は辛いのだ。自分たちが雪や地震や雨で大変な思いをしているとき、康之もきっと大変なことがいっぱいあるのだろう。いつも茶化して文句を言っていることを敦子はちょっとだけ反省した。
「そっか。早く帰ってこられるといいね」
「うん、いつになるかわからないけど。あ……もう蜩が鳴いてる。最近は早いよね。昔は夏休みの終りがけだった」
蜩の、かなかなかなという鳴き声が、油蝉のじーじーという声に混じる。変わらないようで、私たちの夏も少しずつ変わっているのだろうと、敦子は考えながらじっと座っていた。
「私もこの風景いいなってちょうど考えてた」
康之は少し何かを迷ったように間を置いてから言葉にした。
「先月健康診断があってさ、大腸の再検査だって。多分大丈夫だろうけど、明日念のために行って来る」
元気がない原因はそれだったのだ。
「一緒に行こうか」
「一人で行けるよ。大丈夫」
「一緒に行く。検査の後は運転もできないでしょう。こわいくせに」
康之はいつものように冗談で返してこなかった。怖がりなのだ。怖がりだからこそ、災害から逃れる星の下に生まれついたのかもしれない。幼稚園児でも入れる、ちゃちなお化け屋敷にさえ入る事が出来ないのだ。怖い映画も絶対に見る事ができない。
「うん。怖い」 康之はひとこと言って笑った。
検査は半日がかりだった。小さい病院だが、室内は淡いブルーと白のクロスで統一されており、清潔で落着いた雰囲気に幾分緊張がほぐれた。明らかに康之のように再検査に訪れた中高年のサラリーマンが、患者の大半を占めているようだった。どの人も一人で、見た目は淡々と座っていた。心の中は不安でいっぱいだろう。自分は過保護だったかと、こそこそ出入りを繰り返しながら待った。だが、検査を終えた康之はやはりきつそうで、一緒に来て良かったと思った。
「一人の人が多かったからちょっと恥ずかしかったけど、一緒に来てもらってよかった」
少し安堵した顔を見せて、ありがとうと言った。