次に帰って来るのは盆休みだ。それまでに家族皆無事で暮らすことができればいいと敦子は思う。何もない日の積み重ねが、遠い先の変わらない平穏な日になる。それは殆ど奇跡だと最近思うのだ。何が起こるかわからない毎日をみんな生きている。
電話をかければどこにいても声が聞けて、手紙を書けば間違いなく届く。蛇口をひねればおいしい水が出て、どこの店にも新鮮な卵や野菜が並んでいる。望めばそのあれこれを選んで火を通し、食卓を囲む相手がいる。それはすごいことだ。誰もが変わらぬ毎日をしっかり繰り返しているから、それが全て可能になってつながるのだ。そして、しっかり食べて排泄できる体がある。全てが奇跡の積み重ねだ。
ふと心配になって百合子に話しかける。珍しく早く帰宅した娘の就活は、うまくいっているのだろうか。それは呑み込んでおこう。
「お父さんが大阪に行ってここにいないってことは、その間にこっちで何かとんでもないことが起こるってことじゃないかな。また大雪とか」
「大丈夫よ。ほら、なんていうか、お父さんて良い運も悪い運も小出しに使う人だと思うよ。だから大丈夫」
「それもそうね」
長女というのはかくも父親を小者扱いするものなのだ。だが妙に説得力があり安心した。
その夜康之から電話があった。
「検査結果出たよ。大丈夫だって」
「よかった。結局なんだったの。とにかく食べ過ぎ注意だからね」
「なんだったんだろうね。でも安心した。ありがとう」
「びびったでしょう」
「うん、ちょっと」
やっぱり運を小出しに使う人だ。よかった。
「和人はお盆帰って来るって言ってた?」
百合子が珍しく弟のことを気にかける。
「部活とアルバイトで無理みたいよ。後期が始まる前に一度ゆっくり帰りたいとは言ってたけど。まあ忙しくて何よりじゃない」
「最初は大学辞めたいなんて話していたけど、何とか慣れてきてよかったよね」
そんなこともあった。一年前が嘘のようだ。
二階から菜見子が降りてきて姉と雑談を始めた。今日は機嫌がいいらしい。受験生の天気はころころ変わるが、基本悪いといっていい。もともと特別成績が良いわけではない上に睡眠不足だ。はかどっていようがいまいが慢性睡眠不足になるのが受験生だ。
「お父さんね、会社の検査にひっかかって再検査してきたの。で、結果が出て大丈夫だったって。一安心した」
「まあ、あれだけ食欲があればどこか悪いわけないか」
「お父さんびびりだもんね」
「ちょっと熱があるだけでも大騒ぎなのに大病なんてされたらたまらないよね」
ひどい言い草だが、娘たちもそれなりに安堵しているのだろう。
「すいか食べる?」
「やった」
まだ部屋で遊びたそうにしているアカネをすいかの欠片で誘って外に出す。夕方つけた蚊取り線香は、まだ三分の一も燃えていない。私たち家族は今どこらへんにいるのだろう。もう少し先に進んでいる気もするし、まだまだ先が長い気もする。途中で消えたり折れたりしないように進んで行くしかない。それでも何があるかわからない。
毎日同じに見えてもふと気づいたときに、景色がいつの間にか変わってしまっている、そんな日がいつか訪れるにちがいない。人生の岐路なんて言葉をよく使うが、いつだってそれが岐路だなんてわからずに通り過ぎているにちがいないのだ。次の夏には誰がどこにいるかもわからない。いつかきっとみんなここを出て行く。敦子自身も永遠にいることはない。川の底を転がる石のように少しずつ形を変えながら流れているはずだ。
それでも家族は記憶の中に生きている。それでいいと思う。記憶の中に生きる家族がいとおしいものになるように、日々繰返していくしかないのだ。部屋の中では金魚の器がいつものようにプクプクと煙を吐いている。