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『遠くの夏まで』菊武加庫


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7月期優秀作品

『遠くの夏まで』菊武加庫

 
 夫の康之はいつも肝心な時に居合わせることができない。いやむしろ、本人にとってはラッキーなことだったのではないか、ガッツポーズをとったのではないかと敦子は疑うときがある。夫が厄災や面倒なことあれこれから、意図せずしてするりと逃げているよう見えて、その呑気な顔に怒りを覚えたことは、軽く二十回は越えている……、と思う。
 康之と敦子は結婚して二十三年になる。二人の会社に共通の知人がいて、五人ずつの食事会をしたのが出会いだった。今でいう合コンだ。康之は中心になって場を盛り上げるタイプではなく、聞き役のことが多くかったが、そこが敦子には好ましかった。いかにも切れ者という人や、中心にいて話題を提供するタイプの男が敦子は苦手で、それは今でも変わらない。康之も同様だったらしく、人見知りの敦子とは気が合った。
 何度かお茶と食事に誘われて、何となく親しみを感じるようになり、二年の交際を経て結婚に至った。大恋愛かと言えばそうではないかもしれない。なにしろ障害が一つもないのだから。周囲はほのぼのと賛成ムードだったし、清算すべき異性関係もなかった。悲しいほど身辺に曇りのない二人だったのだ。一緒にいて疲れることがなく、笑うことが多いのが決め手といえば決め手だったようにも思える。
 たとえば、「この映画面白いよ」と言って見せてくれたビデオが、三人のさえない男が、メキシコでスリーアミーゴとして活躍するというコメディだったが、これが本当に笑えたのもよかった。きっと威張屋や、偉そうなおじさんにはならないような気がしたのだ。

 結婚して分かったのだが康之はただおとなしいという性格ではなく、かなり飄々としていて、良くも悪くも慌てることがない人だった。客観的にそれが証明されたと感じ入った出来事がある。
 数年前から世間では、コンプライアンスという片仮名が盛んに取沙汰されるようになった。夫の会社でも、過労死や鬱を防ぐためか、あるいは職場ストレスや人間関係をチェックするためか、メンタルテストみたいなものが、行われるようになった。そのテストが何かの役に立ったためしがあるかどうかはさておき、義務化に先駆けてのメンタルチェックに会社は意欲的だったようだ。
 康之はそのテストにおいて、「ストレス耐性が大変高い人です」と、さも優秀であるように診断された。そうだろう。そんなことは家族全員が知っている。
 大概の出来事は微妙な冗談で乗り切り、大きな怒りも笑える悪口にする能力に長けている。おかげで家族のストレスはほどよく緩和されてきた。四月から大学三年の百合子と、やっと大学合格して家を離れることになった和人、高校二年になる菜見子、どの子も多少の波はあるにせよ、無事反抗期の嵐をくぐり抜け、まあまあ穏やかな性格に育ちつつある。だが、繰り返し言うが彼には予知能力に近い、面倒を避けるという能力が備わっている。

「不思議よねー。いつも肝心なときにいないってどういうこと?狙っているとしか思えないんだけど」
「またそれを言う。わざとじゃないだろう」
 康之はビールを飲みながら心外そうにちらりとこっちを見る。こういう時はあれもこれも思い出し、引っ張り出してきれいに陳列し、ひとつひとつ解説したくなるのがよくある女のパターンらしいが、敦子も例外ではない。
「ほら、和人の出産のとき……」
 あのときは、百合子をつれて里帰りしていた敦子の実家にまで会いに来てくれた。久々に会う父親に百合子は大はしゃぎして、まだ元気だった実家の両親はすき焼きでもてなした。既に意気投合していた敦子の父と康之はビールを軽く十本は空けて、一升瓶も空けて出産の前祝をしたのだった。考えてみたら、あのとき産気づいたら誰も運転できない状況だった。
「おとうたん、またきてねー」
 翌日、ギンガムチェックのワンピースを着た二歳の百合子が、愛らしい手を振って康之を見送り、車が見えなくなった、と思ったら陣痛が始まった。携帯電話など持たない頃で連絡しようもなく、結局、夫が和人に会うのは一週間後のことだった。
 菜見子のときは臨月に入る直前、一ヶ月の長期出張で東京に行った。当時は親子四人、まだ借家住まいだった。すると、夫の不在を経験したことがないほど激しい台風が襲ったのだ。筋向いの家は屋根の瓦が飛ばされ、安普請のわが借家は恐ろしいほど風に揺れた。そのうえ停電はいつまでも回復せず、真っ暗闇になった部屋で幼子二人となすすべもなかった。電気が切れるというだけで、途端に人は無力になる。子どもとなんら変わらないほど途方に暮れる。
「大丈夫ですか」
 雨戸を叩いて声をかけてくれたのは隣のご主人だった。
「何かあったらすぐ言ってくださいね。お互い様ですから」
 大人の男性が近くにいて、気に留めてくれていることが心強かった。よその人だが。
 この日、夫は生まれて初めて東京で落語を聞きに行って、感激の時間を過ごしていたらしいのだ。

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