「そんなことやっていても無駄だ。ペダルを外せ。ペダルがあるからペダルに頼る。ペダルを外してバランスを取る練習をしろ。すぐに乗れるようになる」
急に彼が救世主に見えた。
「スパナをもってこい」
美幸が首をかしげていると、
「大きなネジ回しのことだ。分からなかったら、工具入れごともってこい!」
美幸は家に自転車で飛んで帰った。工具入れは玄関の下駄箱の中にある。工具入れごと自転車の荷台に積んで、全力疾走で公園に戻った。彼と母はベンチに並んで座り、何やら親しげに話をしていた。美幸は一人で汗かいて、バカみたいだと腹が立った。でも、怒っている暇はない。腕時計を見た。もう、三時四十分だ。時間がない。彼は使用するスパナとペダルの外し方を教えてくれた。言われる通りにすると、案外簡単にペダルが外れた。
「次はサドルの調整だ。両足が地面に付くくらいの高さにしろ」
準備は出来た。すぐに、練習開始。母はサドルにまたがり両足で地面を蹴って、ハンドルだけでバランスを取る。彼と美幸はさくら道のまん中で並んで立ち、監督とコーチのように母を見守っていた。二十分ほど練習すると、母は足を地面に着かずに十メートルぐらい進めるようになった。彼は深く頷いて、
「よし、ペダルをつけろ」
美幸は彼に教えてもらい、ペダルをつけた。はずす時より手間取った。母は再び自転車に乗り、地面を蹴ってバランスを取りながら、こわごわとペダルに足をかけた。一瞬、グラッと自転車が傾く。彼が叫んだ。
「こげ!ペダルをこげ!」
母はペダルをこいだ。自転車は進む、どんどん進む。自分が初めて自転車に乗れた時のように興奮した。
「見て!お母さん自転車に乗っている!」
彼の姿がない。横に立っていたのに、どこにもいない。その時、母の絶叫が聞こえた。
「美幸!助けて!止まらないよ!」
直後に、ガシャーンと大きな音がした。母がベンチに衝突して倒れた。美幸は母に駆け寄った。
「ブレーキかけなきゃ」
「かけたことないもん!」
「もう逝ってしまったのよ。あちらの世界へ」
美幸は母と桜の木の下にあるベンチに座っていた。自転車の乗り方を指導してくれた彼は母の仲間だった。美幸が工具一式を取りに家に戻った時、彼から事情を聞いていた。彼は一週間前、三宮から夙川へ流れてきた。桜が散るまではここに居るつもりだった。
四日前、春の嵐が来た日のことだった。まだ嵐が来る前、午後三時頃だった。彼は公園のベンチで寝ていた。空は穏やかに晴れていたが、突然、黒い雲が湧き上がって、空全体を覆い始めた。お花見に来ていた人々は次々と帰り始めた。彼は橋の下で雨宿りをしようと川沿いの階段を降りてゆく途中、踏み外してころげ落ちた。立ち上がろうとしたが、脚が言うことを聞かない。右足首がひどく痛む。