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『黄泉桜』太田ユミ子


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 雨が降り始めた。這って橋の下までなんとかたどり着いた。右肩もひどく痛む。手をあてるとベッタリと血がついた。転がり落ちた時、コンクリートの階段にひどくぶつけたのだ。深い傷らしい。どくどくと温かい血が流れている。このままだと危ない。でも、このまま人目につかない場所でひっそりと死んで行く、猫のような死に方もいいかもしれないとも思った。思い残すことは何もない。もう、五十年以上も生きた。ちょうどいい死に時かと思った。
 翌朝、犬の散歩に来た主婦に発見された時、彼はもう冷たくなっていた。
「いいさ、人は一人で生まれて、一人で死んでいくものだ。人にかかわると厄介なことばかりだった」
 死の直前、彼は割り切ったはずだったが、あまりにも惨めな最期に納得出来なくて、あちらの世界に行けず彷徨っていた。
「でもね、美幸を見ているうちに、かかわりたくなったって。子供の時、お父さんが自転車に乗れるようにしてくれたこと思い出したって。自分を愛してくれた人を、いっぱい思い出したって―」
 美幸は桜を見上げた。この一週間でチラホラ咲きだった桜は満開になった。青空をキャンバスにした真昼の桜も美しいが、夜空を従えた桜の美しさはどうだろう。黄泉の世界の光景を見ているような気がした。桜の花びらは絶え間なくはらはらと落ちて来て、母の髪の毛や肩に止まった。美幸はふいに遠い日のことを思い出した。
「覚えている?美幸が保育園に通っていた時、二人でここへお花見に来たこと」
 今、そのことを思い出していた。母があちらの世界から帰ってきた日に見た夢。
「仕事ですごくいやなことがあったの。辞めるつもりで無断欠勤したの。でも、満開の桜と美幸の顔を見ているうちにまた明日からがんばろうと思ったの」
 母はじっと美幸を見つめた。
「逝かないで!私を一人にしないで!」
 美幸は母を抱きしめた。母はゆっくりと美幸から離れて立ち上がった。
「自転車に乗れたら、お父さんのことを、話す約束をしていたよね」
 父のことを幼い頃からずっと知りたかった。母は今、話すつもりなのだ。ずっとこの時を待ち望んでいたはずなのに、信じられない言葉が口から出た。
「いいの、お父さんのことはもういいの!お母さんがいてくれたから、それでいい。お母さんは、私の両親だった」
 美幸の二十五年の人生に父はいなかった。でも、祖父がいた。祖母がいた。そして、母がいた。父が足りない家族だと思っていたが、足りない者など無かった。みんな逝ってしまって、一人ぼっちになってしまったけれど、美幸の家族だった。オアシスだった家族。母は泣き出しそうな顔で微笑んでいた。
「美幸、いろいろ迷惑かけてごめんね。最後の最後まで我儘で自分勝手な母だった。ほんとうに、ごめんなさい。自転車なんてどうでも良かった。美幸に謝りたくて、帰って来たの」
 母の体が薄れてきた。足元はもう、消えかけている。母の手をつかもうとしたが、美幸の手は母の体をすり抜けた。
「また、会えるよね」
「いつか、またね。幸せになって・・・」
 母の姿が見えなくなった瞬間、強い風が吹いて、桜の花びらを雪のように散らし続けた。

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