「私も闇から出てきたと思うけれど、はっきり覚えていない。気が付いた時は広い道の真ん中に立っていた。みんな光の方へ歩いて行く。立ち止まる人は一人もいない」
みんな行ってしまって、母は一人ぼっちになった。その時、声がした。
「なぜみんなが行く方へ行かないのだ」
母はあまりにも突然死んでしまったので、死んだ気になれない。やりたいことが一杯あって、悔いが残っていると訴えると、
「悔いを残さずに死んでいく人間はいないのだよ。でも、したかったことを一つだけ言ってみなさい」
「自転車に乗ってみたかった。自転車に乗れないまま大人になって、人生を終ってしまった。一度でいいから自転車に乗って、風を切って走ってみたい」
「いいだろう。あなたを現世に戻してあげよう。ただし、現世に居られるのは一週間だけ。時間は午前三時から五時までの二時間だけだ。もし、自転車に乗れるようにならなければ、大変なことになるがそれでもよいか?」
「絶対に乗れるようになります!」
「大変なことになるとはどういうことなの?」
「それは言えない。とにかく戻ってこられた。そのことを喜ばなきゃ。美幸の自転車貸してね。赤いママチャリ。さっそく練習を始めなきゃ。いや、明日からでもいいか。手伝ってくれるよね。美幸は小さい頃から親孝行だったものね」
母は一度死んでも、ちっとも変らない。外ではやり手の「保険屋のおばちゃん」だが、家では子供と同じだった。素直でおとなしい子供だったらいいが、我儘で自分勝手な子供だった。本当に自転車に乗りたくてこの世に戻ってきたのだろうか?母がそんなに自転車に乗りたかったなんて知らなかった。美幸は一つ重大な問題があることに気がついた。
「お母さんは幽霊でしょ」
「一応、世間ではそう呼ぶわね」
「幽霊って足が無いでしょ。どうやってペダルこぐの?」
母はニコッと笑って立ち上がった。膝丈のセミタイトスカートの下には生前と変らぬ二本の脚があった。「魔法使いサリー」のサリーちゃんの脚みたいに足首のない、色白ゆえによけい太く見える―正に大根足。美幸はストレートの髪も色白の肌も小顔も似ていないのに、サリーちゃんの足首だけは母にそっくりだった。
「幽霊に足が無いなんて、人間が勝手に決めたことよ」
母は手をひらひらさせると、
「じゃ、また明日」
その瞬間、母の姿だけが霞がかかったみたいに白っぽくなって、スーッとかき消すように消えた。テレビ台の中に置いてあるデジタル時計に目をやると、ぴったり午前五時だった。