美幸は私生児だ。母は父のことを何一つ教えてくれなかった。祖父母と同居していたので、父のいない寂しさもあまり感じなかった。元々、父が居る家庭を知らないから、父が居ない寂しさがどのようなものか分からなかった。でも、父がどんな人なのか知りたかった。生きているのなら一目、会いたかった。祖父は美幸が小学四年生の時、祖母は五年生の時に相次いで亡くなった。祖父母も美幸の父が誰なのか知らなかった。
「立ってないで、こっちに来て、座ったら」
ガラス戸の前で立ちつくす美幸に母は手招きした。
「ちゃんと説明するから」
美幸はとりあえず、母の向かい側に座って炬燵に足を入れた。中はひんやりとしている。スイッチを入れた。母は顔色が悪かった。元々色白だったが、それとは違う生気の無い青白い顔をしていた。髪型はショートボブ、小さな顔と年のわりにはきれいな首筋にそれはよく似合っていた。母は納棺する時に美幸が着せた若草色のスーツを着ていた。十年前、美幸の高校の入学式に着ていくために買ったブランド物だ。
これは夢かもしれない。さっきは「お花見編」で、今度は「ヨミガエル編」に違いない。夢から醒めたつもりが、また別の夢の中にいることはよくある。でも、もしこれが現実なら、目の前にいるのは―。
「ああ、やっぱりわが家はいいわね。落ち着くわ」
母は炬燵のテーブルの上で頬杖をつき、すっかりくつろいだ様子だ。顔色が非常に悪い点を除けば生前の母と変らない。これは幻影か、世間一般で幽霊と呼ばれているものなのか?確かめなければ・・・。美幸はいきなり頬杖をついていた母の右手首をつかんだ。予想に反して、美幸の手は母の手をすり抜けなかった。実体はある。でも、その手はとても冷たかった。
「驚くのも無理ないと思うけど、心残りがあったので、帰ってきたの」
心残りって、何?お父さんのこと?
「自転車に乗ってみたかった―自転車に乗って、風を切って走ってみたかったの」
一瞬期待したのに―自転車に乗ってみたかったからだと!
(そんなことのために、夜中の三時に突然あの世から帰ってきて、思いっきり驚かしてくれるなんて!)
美幸は腹が立つと黙り込む。元々言葉が少ない方なので、怒っていることを気付いてもらえないことが多い。母は美幸の怒りに気付かないまま、話し続けた。
「人生八十年の時代に五十年で終了してしまうなんてひどいじゃない。それも突然、何の前ぶれも無く。あちらの世界に行く気がしなかった」
「あちらの世界って天国?」
「よくわからないの。深い闇に閉ざされた所から、とても広くて長い道がずっと続いていた。闇から多くの人が出てきて光に向かって道を歩いていくの。大人も子供も老人も」
美幸は怒りを忘れて、次第に話に引き込まれていった。