「あれ、知美よ。覚えてる?」
「え、知美? あの大人しかった彼女かい?」
「そうなの。見た目は面影あるけど、今は立派なお母さんよ。子供生まれると女は強くなるから」と麻美はしみじみと言った。
「いやぁ、昔を考えると今の彼女の姿は予想できないな……」
「結構いるんだよ、私たちと同じ時期に学校に通ってた親たち。みんな故郷が好きなのね。三女の同学年の親にも数人いるし」
「そうか……そうだよな」
「……あっ。私、車を変なとこに停めてるのよ。ちょっと行くね。じゃあまたね、浩介君」
麻美は思い出したかのように言うと、慌てて自分の子の手を引いて、俺と娘に手を振りながら離れていった。麻美の娘が後ろを振り見ながら、笑顔で小さく手を振っているのが印象的だ。
慌ただしく行ってしまう麻美に、帰りの挨拶を掛ける隙などなく、無言で手を振って見送るしかなかった。
「パパ、帰ろう?」と側にいた娘が、掴んだ俺の腕を軽く揺らす。
「ん? ああ、そうだね。帰ろっか」
娘の掌を指先で摘まむように握り、この小さなお姫様を優雅に先導し、歩き始めた。
家へと向かう帰りの道。狭い住宅路が開けると、車通りが増える広めの道路へ。
通り沿いに歩道を歩いて行けば見えてくる。思い出に促されて無意識に訪れたのでもないだろう。
親父の仕事場が。あの軒下に灰皿がある。
「じいじいの会社」と娘が言った。
「そうだね」と俺は答えた。
いや、正確には元か。今は親父の会社ではない。
親戚筋の男性が会社をそのまま引き継いでいた。関係は無いとはいえないが、もうほぼ部外者だ。建物を見上げた先にある看板「井上コピー社」はそのまま使われている。
だが玄関脇にあった灰皿と、錆模様のパイプ椅子は撤去され、何も残っていない。
――感傷に浸るつもりはない。ただ記憶を刺激されただけだ。
小学生時代の親友、洋介。同級生だった麻美、知美。偶然に逢って、見て、語って。それに親父が折り重なって。
一度だけだ。小学生時代に親父の事を凄いと思い、また同時により不可解にした出来事を思い出していた。
今もそうだが、この地域は森林が多い。ちょいと住宅街を外れれば、人の手が入っていない森がかなりある。それが昔だったら尚更だ。
子供たちは森を恐れずに分け入り、思い思いの遊びを創造していた。
ターザンごっごに、探検隊ごっこ。それぞれの仲間内での秘密基地作りもあった。
虫も小動物も豊富にいて、好奇心を刺激されるのに事欠かない。今でも変わらない、親はたちは危惧し、そんな事は露知らずに子供は乗り込んでゆく。