まだ鬼が身近にいた頃の話である。
紀季雄は六位の官人であった。秋の夕暮、内裏より戻る途中、朱雀門を過ぎる辺りでひとりの男に声を掛けられた。薄紫の直衣に茶の指貫を纏った男を見て、季雄は驚きを隠せなかった。
「少しばかり時間をいただけないか?」
男の着衣が己にそっくりなだけではなく、姿形までがよく似ているのである。烏帽子の先までが同じ高さにあって、おまけに低くくぐもった話しぶりなども、己の声を聞かされているような具合だった。
「双六を嗜む御仁を探しているのだが、お手合いのほどいかがであろうか」
男は辺りを憚りながら、小声で囁くように言うのだった。その頃洛中にあっては、賭事禁止の命が下っていた。窃盗、追剥や借財に端を発する不品行の数々が蔓延する都にあって、富貴の乱れを一掃するための施策のひとつとして賭事の禁令が布かれていた。この借財を重ねる大半の原因が賭博であって、中でも双六が大流行りとなっていた。
実のところ季雄も、双六なるものに現を抜かす迂愚の輩であった。多額の借財を抱え家内は火の車であったのを、賭事が禁制となったのを機会に心を改めて、生計の立て直しを図っている途上にあった。
しかし根からの博打好きなものだから、夕暮にもなると、邪心が擡げ、その心持ちを抑えるのに難儀するのが季雄にとっての日常となっていたのである。そのような折に誰もが口にすらしまいとする禁制の双六の誘いを受けたものだから、己と瓜二つの相貌を戴くこの男の不審などに気が回ることもなく、心が崩れ落ちた。
「はて、今のは何かの聞き間違いではなかろうか。今やそのような事は御禁制のこととて、知らぬ者などいるはずもないこと。見立て違いではなかろうか」
そうは言うものの季雄の足は朱雀門の外に出ることもなく、門柱を背にして立っている見知らぬ男に対して、探るような視線を向けたまま身動ぎもしない。
「内密のことでもありましょうし、仔細は楼上にてお願いしたい」
男は得も言わせぬ勢いで言い放つと、梯子段を上って行った。季雄も男の足下を追うように恐るおそるではあるが、一段ずつ足を掛けた。
楼上に頭が届くと、ぼんやりとした灯りが薄暗闇の中に点っているのが見えた。蝋燭の灯りに向かって床板を踏みしめて行くと、燭台の根元には双六盤が置かれていた。盤の上には既に黒白の石が並べられている。傍らには逆さまになった振り筒があった。おそらく骰子が二つその中に入っているのであろう。
用意は万端であった。ここに至っては最早抵抗のしようもない。季雄は誘われる儘に双六盤を間に男と対座した。