小説

『in New World』内藤ハレ(『不思議の国のアリス』

 

 

 母が戻らない。母の消えた方向を見つめ、私はどうしようもない不安に駆られた。

 悪い予感がしたんだ。二度と会えないようなそんな予感。だから行かないでほしいと頼んだ。それこそ泣いてすがった。それでも母はいつものように笑って、私には理解できない言葉かけ、私の手を離した。何故笑うの?もう会えないかもしれないのに。そう言って手を伸ばす私を少し困った表情で見つめ、もう一度ぎゅっと抱きしめるとまた何ごとか言葉をかけた。そしてやはりいつもと同じ言葉で締めくくり、母は去って行ってしまったのだ。

 私と母は意思の疎通ができない。敗因はそれだ。

 いやもしかして、母が戻らない原因ですらあるのだろうか。実は母とは生まれた星が、故郷が違っていて、だから私たちはお互いの言葉を理解することができない。それに疲弊して母は生まれ故郷に帰ってしまったのかもしれない。

 ということはやはり置いて行かれたのだという結論に達すると、腹の底で言いようのない悲しみと孤独と絶望がぐらぐらと煮えたぎるような感覚に襲われた。喉の奥からそれらがマグマのようにせりあがってくる。こらえきれずにそれを吐き出そうと口を開けたが、ふと、別の考えが思い浮かぶ。

 もしくは帰りたくても帰れないのかもしれない。

 この世には予期せぬことがたくさん起こる。何かの下敷きになったり、狭いところに顔を突っ込んで挟まったり、思いのほか自分の頭が重くて起き上がれなかったり。突然お腹が空いたり、眠くなったり、歯がむずむずしたり。そう、アクシデントはそこかしこに転がっているのだ。母が一人で困っている様子を思い浮かべ、想像はどんどんと悪い方へと膨らみ、血の気が引いていく。大変だ、泣いている場合ではない。

 こうして私は居心地の良い場所を離れ、母を探す決心をした。


 母が消えた方角を目指し両手両足を懸命に動かした。少し行った先には変わった生き物達の住んでいる森がある。母が出かけている間私はよくそこへ出向いて遊ぶのだ。森の仲間たちと時間を忘れて遊び、気づくと寝入ってしまうことさえある。姿かたちこそ変わってはいるが、母とは違いそこに住む生き物たちとは意思の疎通を図ることができた。

 私が来るとみんなこぞって駆け寄ってくる。お腹を押すと素敵な音が鳴る白いクマに、歯がむずがゆくなると「私を噛んで」と駆けてくるキリン。ふわふわの毛のハリネズミ。小さなウサギは揺れるとそれに合わせて鈴の音が鳴る。みんな小さくてしきりに私の手の中に収まりたがるし「遊ぼう」と誘うのだった。

 今日は行くところがあるというと「そっちはあぶないよ」「ここにいようよ」とみんな心配そうに私をみる。抗いがたいつぶらな瞳とキュートなボディ。

 それでも行かないといけない。どうしても母に会いたいと訴えるとみんなは強くは止めなかった。

 ところがしばらく進んで森の出口に差し掛かると、大きなウサギと角のあるウマが立ちはだかった。

「ここから先は通せないよ。」

 このウサギとウマは母にとても忠実だ。体も大きくてびくともしない。母に会いに行くのだと言っても、頑なに首を横に振る。

 母が危ないかもしれない。一人で動けないのかも。そう言うと一瞬不安そうな顔をして顔を見合わせたが、すぐに思い直して「ダメダメ」と通してくれない。

 困った。ここを通らないと母を追うことはできない。

 一瞬でも二本足で立ち上がって威嚇してみようか。

 考えを巡らせていると、急にウサギとウマの体が浮いた。大きな手が二匹を持ち上げたのだ。

 “母だ”と思った。が違った。

 その女性の笑った顔は母に似ていたが、雪のような白い肌にたくさんの皺が寄っていた。それになんだか色が薄くて日の光に当たると見えたり見えなかったりはっきりしないし、風に棚引くようにゆらゆらと揺れて頼りない。

 けれど森の生き物や私に比べると母に近い姿形をしていた。その人はウサギとウマを抱えたまま私を通そうと横にずれた。お礼を言うとまたニコリと笑うので、どうやら私の言葉がわかるらしい。母ともこんな風に通じ合えたらどんなにいいだろう。

 それにしても、森にはいつも来ているが初めて見る顔だ。

 あなたは誰?聞いてはみたが微笑むばかりで何も言わない。口はきけないのだろうか。

 その人はウサギとウマをそっと下すと、私の頬を両手で優しく包んだ。二匹は一目散に駆けて行ってしまった。

 私はまっすぐその顔を見つめて、ふとある質問をしてみたいと思った。それは母が私に一番頻繁に、一番嬉しそうに使う言葉のことだった。もしその言葉を覚えたら、母は喜んでくれるかもしれないと思ったのだ。ただ何を意味するのか分からない。

 その人はそれを聞くととても嬉しそうに笑って、初めて口を開いた。

「とてもいい言葉だよ」

「私はその言葉を聞くと、春を思うわね。暖かくて優しい季節だよ」

 そう言うと、その人はフっと消えてしまった。暖かくて優しい声だった。

 私は頬に感じた温もりが消えてしまったことを少し寂しく感じながら、先へ進んだ。


 森の外は街だ。

 森の地面は柔らかくて暖かい。地面だけではなく、生き物でもなんでも触るもの全てが柔らかくて暖かいし、私が手で持ち上げられるような軽くて小さいものが多い。

 けれど森を出ると固くて冷たい地面が続く。そして私よりも大きいものや見慣れない不思議なもので溢れていた。

 無限に柔らかい紙の出てくる箱、壁にはつい覗きたくなるブタの鼻のような穴が並んでいて、真っ暗かと思うと突然何人もの人が映りこむ板なんかもある。可愛い服の集まる広場もあって、舞い上がる服たちと踊るのがとても楽しい。

 そこにあるものはどれもとても魅力的で私の好奇心を誘ったが、それ故だろうか、母は森の外に私を一人で行かせたくないようで、ウサギとウマを森の出口に置いたのだった。

 そんな魅惑の街に足を踏み入れた私だが、今日は寄り道をする余裕はない。私は鉄の意志で前へ前へと進んだ。


 街のはずれには高い壁がそびえたつ。私が一生懸命二本足で立ってもまだ足りないくらい高い壁で、押しても叩いてもびくともしないのだ。

 困った。ガリガリと爪を立ててみても変化はない。

 すると、背後に気配を感じた。

 “母だ”と思った。が違った。

 その男性は母のような目元をしていたが、頭に毛がない。そしてやはり<春の人>のように揺らめいて、微笑むばかりで口は開かない。

 だがこの人も助けてくれるかもしれない。期待してここを通りたいと伝えるのだが、急に少し厳しい目をして首を横に振った。

 どうしても通りたい。母に会いたい。熱心に伝えるのだが今回は一向に首を縦に振ってもらえない。こちらの意思は伝わっているようなのに、聞き届けてはもらえない。そういうこともあるのかと、私はがっかりした。

 それでも粘り強く訴えた。母が動けないかもしれない。助けを必要としているかもしれないのだ。

 そうして半ば根比べのような状態が続いたが、しばらくするとその人は壁の外を見て目を細めた。何かを見つけたようだ。そして諦めたようにため息をついて、私に向き直った。高い壁に手をかけると、私がぎりぎり通れるくらいの隙間を開けたのだ。

 通してくれるようだ。

 お礼を言うと私の頭を撫でた。みっしりしたその重みを感じると私はひどく安心し、またあの質問をしてみることにした。

「いい言葉だ」その人はもう厳しい目をしていなかった。優しく目じりを下げて続けた。

「その言葉を聞くと、始まりや初めてを思い浮かべるね。数字でいうなら一だ」

 そう言うとその人は、消えてしまった。

 私は頭に触れたしっかりとした掌の感触が消えてしまったことを少し寂しく感じながら、壁の隙間に体をねじ込んだ。


<始まりの人>がなかなか私を通さなかった理由はすぐにわかった。壁の外は崖だ。段々にはなっているが、その一つ一つがとても急だし足場は少ない。崖の先も見えずどのくらい続いているかもわからない。もしかすると母はここを転げ落ちたのかもしれない。そう思うとゾッとした。

私は少し迷ったが、行ってみるかとまず頭を崖に突き出した。

その瞬間、体がフワっと浮いた。誰かが私を抱き上げたのだ。

 “母だ”と思った。が違った。

 その男性は母のような鼻をしていたが、やはり頭に毛がなかった。<始まりの人>よりももっとない。

 私はジタバタともがいてそのツルっとした頭をてしてしと叩いたが、すぐに壁の傍に引き戻された。

 私はまたも訴えた。この先に行くのだと。

 <始まりの人>と同じように透明でゆらゆらとしながらその人は腕を組んで私を見た。真剣な目をしているが、怒っているわけではなさそうだ。何かを考えているようなそんな素振りを見せて、しばらくすると両掌を上に向けた。

 次の瞬間にはそこに森にいるはずのミントグリーンのウマが現れた。ウマは手からフワフワと浮くとその場で一回転して私の高さまで下りてくると、乗れと片目を瞑ってみせた。ウマの首に腕を回すとそっと背中に手が添えられた。大きな手だ。

その手に支えられると私は何でもできるような自信が沸いてきて、またあの質問をしてみることにした。

「いい言葉だな」その人は楽しそうにかかかっと笑って続けた。

「それは今までにないものを表す、進歩的な意味を持つ言葉なんだよ。」

添えられた大きな手にポンと送り出されるとウマはゆっくりと崖を降り始めた。私は振り返らなかったが、きっと<進歩の人>も消えてしまったとわかった。寂しかった。

 崖の下が近づくと頑張って浮遊していたウマも力尽きたのか、若干勢いがついたが、ぼよんっとマシュマロのような体が跳ねてショックを和らげた。それにしても世紀の大ジャンプだ。崖の上を見上げて私は少し誇らしい気持ちだった。


あれは、母の脚だ。

前方に捉えた母の脚に私は夢中で駆け寄った。抱きしめてこれでもかと顔をこすりつける。一瞬足がびくりと震えるのと、「えっ?」と頭上から声がしたのはほぼ同時だった。

目を大きく開いた母が私を見下ろしている。

慌てて私を抱きあげて、私と崖を交互に見た。

「どうやって来たの?」

母の話す言葉はやはりわからない。でも、私は得意げに母を見た。

そしてあの言葉を口にしてみた。

「アータ」

母が口にするときと少し違う言葉に聞こえた。しかし、伝わったようだ。母の驚いた顔はとても嬉しそうにとろけ、何事か言って私を抱きしめた。母はやはりこの言葉がとても好きなようだ。

春のように暖かくて優しく、始まりであり、今だかつてない。

『アラタ(新)』

これが私の名前だと知るのは、まだもう少し先の話。


***


「ただいま」            

 玄関のドアが開く音と夫の声に女ははっと顔を上げた。そしてすぐさま炬燵の上で組まれた腕に違和感を覚え、視線を下に向ける。つい先ほどまで感じていた温もりが、重みがきれいさっぱり消え去っているのだ。いるはずの何かが視界に入らないことを一瞬受け入れられず、しばらくまじまじとその腕を見る。

 …いない?

 炬燵をめくる。…いない!

 ガタンと手をついて立ち上がり、ズダダダダと帰ってきたばかりの夫の鼻先をかすめ、リビング階段を駆け上がる。アニメだったら夫はそのはずみで高速回転しただろう。

 ベビーゲートを乗り越える。そこに敷かれた小さな布団の中に…いない!?

 ひえぇと両手で顔をつぶし、掛け布団やら座布団やらをひっくり返す。いない。いない。

 ひと騒ぎした後、何事かとやってきた夫が電気をつけると、またいできたベビーゲートのすぐそばで行き倒れるように眠る娘を見つけた。へなへなと力が抜ける。

「大丈夫?」

 血走った目の女を見て夫は少し怯えるように声をかけた。その声にようやく正気を取り戻す。「なんか、寝てたみたい」ととりあえずわかっていることを口にして、「変な夢を見たよ」そういえば、と続ける。口に出してから、そうかあれは夢か、と女は合点が言ったようなでもまだ焦点が定まらないような頭で夫に報告した。

「新がベビーゲート突破して、大冒険スペクタクルの末一階のキッチンまでくる夢。死んだおじいちゃんおばあちゃんも出てきて、ベビーゲート開けさせたり階段下りる手伝いさせて、それで最後に自分の名前言って」

「めでたしめでたし?」混乱の末、最後を疑問形で締めくくったために夫は少しズッコケたが、そっかと言って肩をたたいた。

「毎日お疲れ様」

うん。と女は頭をかいて答えた。

ふと階下に目を落とすと、ミントグリーンのウマと目があった。