ゆっくりと夜明けが始まった。
光が、夜露をキラキラ輝く朝露へと変化させ、山間には大きく柔らかな白いモヤが揺らめき出す。
太陽は、静かに少しずつ光に熱を持たせ、山の緑や畑の土に温もりを与え始めていく。
何も変わらない、いつもと同じ一日の始まりだが、何度迎えても好きなそのひと時を、茂平治は畑に立って楽しんでいた。
歳を重ねた茂平治は体が弱ってしまい、とても畑仕事が出来る状態ではなかったが、その心配はいらなかった。
畑はもう何年も手をかけられておらず、ただ雑草を生やしているだけであったのだが、茂平治のかすんでしまった目と、それ以上にかすんだ頭には、その地面は作物を実らせるしっかりとした畑に見えていた。
「あれ、茂平治さんじゃないスか」と、近くに住む若者が声をかけて来た。
「おう権兵衛、お早うさん」
「だから権兵衛は死んだ俺の祖父さんっスよ。――完全にマジボケが進んでるな……」
「何言うだや! ちっと間違えたぐれえでバカにすんでねえぞ!」
「うわ……それで耳は良いって、めっちゃ嫌なタイプだな……」
「何だあ? ボソボソとまた悪い口を利いたか?」
「いや、何も言ってないっス。それより今日はどうしてこんなトコに立ってるんスか?」
「オラがオラの畑にいて、驚く事はあんめえよ」
「だって昨日まで横になってたじゃないスか」
「何言うだや! オラは丈夫が取り柄で、伏せった事なんぞねえ!」
「いやいやあのね……まあいいか。じゃあ俺、これから朝飯なんで」
「そうか。じゃあほれ、端に転げた大根でも持ってけや」
「だから……」と、畑には何も無い事を言おうとしたが、理解させるのは無理と口をつぐみ、適当に相槌を打ちながら、若者はその場を後にした。
山間の白いモヤは姿を消し、太陽の温もりが眩しさと共に大きくなった。
気持ち良さそうに光を浴びている茂平治の耳に、土を踏み鳴らす足音が聞こえてきた。
「お、今朝はおかみさんが先に野良来たか。こりゃあ良い。おやじが一緒にいりゃあ、働くだけで鼻歌も出ねえからな」
足音は茂平治の側で止まり、若い女性が笑顔で挨拶をした。
「茂平治さん、お早うございます」
「あんれ驚いた。おかみさんでなくて、娘の緑ちゃんだったのかあ」
「ふふ」
「いや、声が違うな。オラ目がよく見えねえから勘弁な。おめえ様、見かけねえ顔だけっども……」
「すみません、昨日はちゃんと自己紹介をしなくて。私、早苗と申します。孝弘さんと結婚をさせて頂く事になった者です。よろしくお願い致します」
早苗はそう言うと、茂平治に深くお辞儀をした。
「孝弘? 緑ちゃんのせがれのかえ? 担いじゃなんねえよ、孝弘っつうたら小学校さ行き始めたばっかでねえか。嫁さ貰うなんぞ十年も二十年も早えや」
「ふふふ」
二人の側へ、「早苗ちゃーん!」と声を上げ、一人の青年が駆け寄って来た。
「孝弘さん」
「ああ、何だや。おめえ様の旦那は、同じ孝弘っつう名前なんかあ」
早苗の横へ来たその孝弘という青年は、少し息を切らせながら口を開いた。
「散歩するなら俺にも言ってよー。起きたらいなかったから、俺びっくりしちゃってさあ……」
「ふふ、ごめんね。おはよう」
「おはよう」
「茂平治さんにも挨拶して。久し振りでしょ?」
「茂平治さん?」
「あ、お名前違う? 着物に書いてあったから」
「いや、茂平治さんで合ってるけど……あれ、これって早苗ちゃんが立たせてくれたの?」
「昨日ね。さっき起きた時、自己紹介するの忘れちゃってたなあと思って」
「あーもう! 早苗ちゃんのそういう優しくて可愛いとこ、俺だーい好きっ!」
「大きい声出したら駄目だよ。まだお父さん達お休みになってるんでしょ」
「ごめんごめん。でもさ、ここ畑っていっても何も作ってないし、立たせる意味とかなくない?」
「うん。意味が無いっていうか、横になって休んでもらったままの方が良いかなとか考えたんだけど、立っている方が茂平治さんも嬉しいかなと思って」
「ふーん……」
「そのままの方が良かったかな?」
「いや、この方が良いと思う。――俺が小学校になったぐらいかな……親父が農業じゃ生活出来ないから、畑をやめて工場に勤め出したんだよね。それでも祖父ちゃんと祖母ちゃんがいる内は、この畑も残してたんだけどね……」
「そう……」
「あ、早苗ちゃん見て! あそこに虹が出てる!」
孝弘はそう言うと、茂平治を見つめている早苗の肩を掴んで振り向かせ、山間に見える虹を指差した。
「……」
茂平治のかすんだ目に、二人の後ろ姿がぼんやりと映っている。
「茂平治……」と、耳元で声が聞こえた。
「おう、権兵衛……ではなかったな。おめえ、もう朝飯済ませてきただか?」
「孫でねえよ、俺は本当に権兵衛だ。もうとっくに死んじまったけどよ」
「何を分からねえ事を言って……あんれ? おめえ地べたにいねえで、ちっとオラの前さ飛んでみな。よく見えねえけど、カラスのくせに真っ白になってねえか?」
「俺も不思議だけど、死んじまったらこうなるみてえだぞ。ほれ、踏ん張ってしっかりと目を開けてみな。おめえもこうなる前に、見てえものと聴きてえものが出てくっから」
「見てえものと聴きてえもの……?」
かすんだ目を凝らし、しっかり前を見ようとする茂平治。
するとそこには、大きく青々とした畑が拡がって見え、収穫を間近に控えた沢山の立派な作物たちがひしめき合っており、そして一人の女性の姿が浮かんだ。
それは孝弘の祖母の若かりし日の姿である。
「おかみさんだあ……」
女性は作物の手入れをしながら、茂平治に視線を向けると、少し照れくさそうに微笑みを浮かべた後、歌を口ずさみ始めた。
心地良い歌声に、
「上手えなあ……。おかみさんはな、歌い手になりたかったんだとよ。オラにだけそっと教えてくれた事があるんだあ……」と、茂平治は嬉しそうに呟き、しばしの間、聴き惚れた。
やがて、女性の姿と畑の作物たちはゆっくりと消えていった。
「茂平治……」と、権兵衛が声をかけた。
「ありがてえなあ……オラは元から生きてねえのに、こうして命を貰って、たくさん楽しませてもらって……最期は権兵衛が迎えに来てくれたあ……」
「孝弘の嫁さんのお蔭だ。俺が来るにはな、おめえがここにいた証しっつうか、しっかり立って、それを天に見てもらわねえといけなかったんだ」
「そうかあ……」
茂平治は、しゃがんで畑の土に触れている早苗に目を向けた。
「礼の一つも言えねえけど、勘弁してくれなあ。早苗さんだったな。孝弘には勿体無い嫁さんで申し訳ねえが、どうかよろしく頼みます」
何か感じるものがあったのか、立ち上がり、茂平治と目を合わせる早苗。
「ピシッ!」と、乾いた木の折れる音が響き、茂平治は畑に倒れた。
少し離れていた孝弘が、その音に「びっくりしたー……」と言いながら近付いてきた。
「あれ、足が折れちゃったんだ……」と、短くなった案山子の足を見て、再び立てようとする孝弘を、早苗が制した。
「いいよ、孝弘さん。もう寝かせてあげよう」
「え……?」
「私……悪い事をしちゃったんだね。私が立たせなければ、何も無い畑を見ないでいられたのに……多分、それが辛くて……」
早苗の目に浮かぶ涙。
孝弘は案山子を畑にそっと寝かせた。
「――早苗ちゃんは、良い事をしたんだよ。だって畑がどうなってるか知らないままでいたら、逆に可哀想でしょ。安心したんだよ。だからそれで、今度は本当に横になったんだよ」
早苗は孝弘の言葉に、
「ありがとう……」と、涙をぬぐった。
そして、早苗は自分でもどうしてか分からないが、ふとそんな気持ちになり、少し照れくさそうに微笑みを浮かべた後、歌を口ずさみ始めた。