バイクのエンジン音が僕の目を覚ます。もう11月だと言うのに天気予報では最高気温23度なんていう嘘みたいな数字が踊っていた。いつもより目覚めのいい朝がきたと何となく感じながら、モゾモゾと寝床から這い上がり、たどり着いた便器の冷たさに身を震わす午前6時。昨日の昼からろくに食事をしていない為か、今日はやけに腹が減る。床に散らかされた衣服の中から、抜け殻のようなワイシャツとジャケットを拾い上げ、丁寧過ぎるくらいのスピードで腕を通す。一通り支度を済ませ、歯を磨こうとスマホ片手に洗面台へ向かう。何気なく開いたスマホ画面にはいつもより差し迫った時間が表示されていた。この時初めて自分の置かれた状況に気が付いたかのように、昨日のままの鞄を雑に拾い上げ、部屋を後にした。
大きな駅を通るにも関わらず。静かに揺れる登りの車内は、驚くほど空いている。
俊太は日課の読書をしながら、広くスペースの余った座席に小さく着席した。そして、この余白の多い空間の心地よさに、俊太の忙しい感情はいつしか緩やかな放物線を描きながら、車窓から射す光にとろけていった。窓外に広がる東海道らしい田舎の風景は、退屈な故郷と都会との間に横たわる大きな魅力の隔たりを俊太に教えているらしかった。
日々繰り返されてきたこの僕の視界にその少年は突然に入り込んできたのであった。僕より2つ先の駅で彼は乗り込んできた。乗車する人々は少なからず何かしらの目的を持って乗車しており、それは彼らの服装から判別できる。寝不足でうたた寝をするスーツのサラリーマン、朝練に向かうであろう校名が印字されたセットアップのジャージ姿の学生、ヘッドホンで自分の世界に浸る派手な服装の青年。語らずとも彼らには明らかな目的がある。しかし、その少年には目的が見えない。特徴のない服装に、幸の薄そうに眉を垂らし、非対称に並ぶ腫れぼったい両の目と顔の真ん中で主張しすぎた鉤鼻とを地味に並べている。そして、分厚めの本を手に醜く頬を引き攣らせている彼を、気にしながらも、他の乗客と同じ様に関わることはないだろうと考えていた。
しかし、偶然はいつも気が付かぬ間に訪れる。少年の持つ本からスルリと一枚の詩織が地面に落ちたのだった。そしてその詩織は空いている車内で不思議と俊太の足元へ吸い寄せられた。
『すいません、拾っていただけませんか?』
初めて聴いた彼の声に何故か嫌悪を感じ、ふと視線を上げた時、俊太は彼の瞳に綺麗な銀河を見た気がした。それは子供達に見られる、無垢ゆえに鋭い眼差しであるらしかった。
俊太はその瞳に見覚えがあった。しかし、生憎その源流を思い出すには至らなかった。
僕が身を屈めてその栞に手を伸ばすと、少年も身を乗り出してその僕を観察しているらしかった。気味の悪さは感じながらも努めて平常を装い、僕は再度少年と面を向けた。不意を突かれてか、少年は慌てたように体勢を立て直し、『ありがとうございます』と例の引き攣った笑顔を残し元の席へ戻って行った。次に声を発したのは俊太の方であった。
『その本、面白いかい?』
『はい、、、』
『なんていう本なの?』
正常に考えて、ただ朝、同じ車両に乗車する赤の他人に、興味があるからと言う理由で唐突に話しかけ、質問攻めにしている今の状況は明らかに異常であろう。その認識が無くなってしまったのでは決して無い。しかし、それは所謂発作、何か義務であるかのように、もしくは生来の運命であったかのように、止めることができなかった。
少年は明らかな警戒と困惑の色を示しつつも、何か言いたげに唇を動かしている。
そのまま3秒が経ち、8秒が経ち、それでも少年は未だ口を閉していた。この状況に我慢ができなくなったのは俊太の方である。自分の行動を思い返し、後悔とせめてもの肯定の意味を込めて
『ごめんね、急に話しかけちゃって、、、本当、なんか、、、、うん』
一方的に勢いよく喋ったかと思うと、何もない窓外を凝視しながら忙しなく指を擦り合わせ始めてしまった。
気まずさは時間を遅くする。車内は空いているとはいえ、多少の人目があることが俊太の居心地の悪さを助長する。また少年も未だ、俊太を見つめているらしいこともその状況の悪化に拍車をかけていた。しかし、さすがの俊太も、再度少年へ話しかける勇気は湧いてこなかった。車輪の生む単調な軋みが、
この時間のいつまでもぐるぐると循環している様な錯覚を起こさせる。
『夢の本、、、』
『えっ、、、』
その声に俊太は思わず、素っ頓狂な声を出してしまった。
『主人公の男の子がね、夢見るの、とっても綺麗な、気分のいい夢を見るの、、、でもそれは夢なの、どこまで行ってもずっと、ずっと一緒。』
少年は言い終わると、堪えていた何かがふつと切れたように、満足そうなため息の後、静かに読書へ戻っていった。
俊太にとってこの時の少年は、得体の知れない、不愉快な存在に他ならなかった。少年の表情、仕草、声音、言葉、それら全てが俊太の癇に障った。しかし、その心理の原因を彼は見つけ出すことができなかった。
駅名を告げるアナウンスが流れたのは、丁度その時であった。乗客の何人かが荷物を整え始め、機械的沈黙に満ちていた車内は少しの生気を取り戻し、僕らの間に流れた緊迫も、幾らか和らげてくれたらしかった。しかし、少年の降りる気配が見られない事は俊太の心を不安にした。また、少年の癖であろう、人差し指と親指の腹をときたま擦り合わせる動きは、不安で敏感になる僕をより一層乱すらしかった。
車窓の景色は次第に、平凡なものから見慣れた都心の景色へと変わり、彼らを乗せた車体は人の行き交うホームへと滑り込んでいった。ドアーの開きとともに流れ込む人の波の中、俊太の視界は一瞬のうちに塞がれてしまった。
眼前で揺れ動く人の壁は、彼に故郷の山々の木々を思い出させていた。田畑でひらけた景色を突然に遮る山、そしてその上に広がる広すぎる空。生まれた頃から当たり前の風景が、離れて6年でここまで恋しく思うことがあることは俊太を驚かせた。高校生の時分、いつの間にか香る林の匂いも、金色の笹に落ちる野鳥の影も、農具の間を囁く風の笑いも、これら全てが俊太を都会へと駆り立てていた。学校の帰り、黒い藪を抜けた先に浮かぶ電燈の光を目指し、俊太は走っていた。そこは年に一度の催しに、集まる人々が醸す思いの温かみを放っていた。既に定刻を過ぎていたらしく、上の方から流れてくる烏瓜の光が、俊太の頬を流れる汗に反射してここにいることが何か場違いであるかのように感じさせた。
そんな中、俊太は見覚えのある背中を見つけ駆け寄った。彼女の背中はこの頃の彼に、安心と逃げようの無い疲労を与える最大の原因でもあった。彼女は大いに彼の生活を心を助けていることには間違えはなかった。しかし、彼女の存在が彼をこの嫌気がさした地元へ引き留めていることは明確であった。彼女を一人この街に置いていくことは、彼にとって心から自由に夢を追いかけることを重い足枷のように妨げていた。いつの間にか目下の河面には灯籠が流れ着いていた。それを追ってきた人々の足音が、ザワザワとした話し声が、静かに流れていた俊太と彼女との空間を溶かしていった。俊太は邪魔の入った決まりの悪さに少し顔を顰め足元へ目を落とした。しかし、この上手く行かない停滞にどこか心地よさを感じている自分自身の思考回路が彼には不思議でならなかった。また、口ではいくらも夢を語り、しかし、どうも頭は現状の維持を願っているらしいことが次第に否定し難くなる事も彼を不安にさせた。次に目を上げるとそこに居た人々も、灯籠の火も、彼女の背中も何もなくなっていた。ただそこには、宙をそのまま写した銀河が静かに流れるばかりだった。喧騒を抜けた時、自身の弱さを明確に突きつけられた事を実感することができた。ススキの擦れる音が河の流れを包み込む。それは妨げているという風ではなく、優しく抱きしめているらしかった。俊太が目を覚ましたのは、ススキの音が目の前を塞いでいた人々が降車の態勢に入り、荷物をガサガサとさせ始めた音だと気がついた時であった。気がつくと、胸はおかしく熱り頬には冷たい涙が流れていた。視界は霞み、あまり明快ではなかったが、俊太の目は少年を探していた。俊太の少年に対する怒りは嘘のように消え失せ、謝罪に似た言葉すら頭には浮かんでいた。目的の駅が近づくにつれ、人々は自動機械の如く、疑問を抱くことなく態勢を合わせ乗車口へ流れ始めた。俊太もこの流れに乗じて目的の少年を今一度、視界に収めようと必死になっていた。しかし、一向に彼は現れることはなかった。
車体の揺れは次第に緩やかになり、大きくひとつ前後にゆれ優しく止まった。そして俊太の願いも叶わず、人々は開かれたドアーから吸い出されるかのようにホームヘと吐き出されていった。俊太は諦めて閉まりゆくドアーを眺めていた。無慈悲にも閉まってしまったドアーを眺めながら、俊太は何か思い出しそうで思い出せない気味の悪さを感じていた。
動き出した電車の車窓にフッと少年が現れた。それは俊太にとって、まさに現れたのであった。一瞬であったが、走り去る車窓から見えた、ホームから改札へ向う階段を降りる彼の少年を見た。彼はいつもの本を片手に大事そうに抱き、とある女性に右手を引かれながら足を進めているらしかった。
俊太はその女性に明らかな見覚えがあった。彼女の立ち姿は河を流れる灯籠が照らした俊太の汗の滴りを彼に思い出させた。そして、今も尚彼の足に弱々しく繋がれた鎖を思い出させた。その刹那、俊太の脳内に少年の読み耽っていた本のタイトルが一枚の画像として浮かび上がってきたのであった。その時、彼は得体の知れぬ自己嫌悪が自分を飲み込んでいく事を感じ、全身に寒気が襲った。そして、先ほどとは程遠い後悔の涙が遠くの景色を映す瞳から、溢れ出していった。俊太は大きな銀河を湛えた瞳を自身の瞳に映したまま茫然とその場に座ることしかできなかった。
景色は再び都会を過ぎ、住宅街を過ぎ、開けた景色へ戻っていった。乗客の形も先ほどの機械的な表層から粒だった、温かみのあるものへと変化していった。
俊太の降りる駅は、未だ開発の続く都会とは言い難いベットタウンであった。ひび割れの盛り上がるホームのコンクリートを踏み締め、降り立った時、彼のスマホに着信が入った。それは狙っていたかのようなタイミングであった。電話口の担当医は淡々と要件を語り、俊太はそれを静かに聞き終えた後、改札に続く階段へ静かに足を進めた。彼の腕に抱かれた単行本を今一度開き、年季の入った詩織を最初のページへ戻し、パタリと本を閉じた。明日には新幹線のチケットをとって、そして、錆び付いている仮の夢を、本当に、心から語ってみようかなと思ったりなどした。