小説

『消えない』草間小鳥子(『生まれ変わりのしるし』)

 

 

 ピシャッと柔らかい肉を打つ音がして、菜穂は肩を震わせた。この音を菜穂は知っている。その時に手のひらに染みる痺れも。信号待ちをしている群衆の背後から「どうして余計なことするのっ」と尖った声が響く。ざわめきのなか、やけに鋭く。この声も菜穂は知っていた。

 うつむく菜穂の右を、左を、支流のように足並みは通り過ぎてゆき、

「お母さん?」

 とカナにコートの袖を引っ張られ、菜穂は慌ててカナの手を握ると信号が点滅をはじめた交差点を足早に渡った。カナの手はすこしかさついていて、あたたかい。ちいさな手の親指の付け根には三日月型の薄いあざと、もう目を凝らしても見えないほどの傷があるはずだった。

 この冬で、カナは四つになる。誕生日プレゼントに、菜穂はカナが前から欲しがっていた水でくっつくパズルビーズのセットを用意して手作りのカードと一緒にクローゼットに仕舞ってあったし、いちごの乗ったチョコレートのケーキを作る約束をしていた。先月の保育園の学習発表会で、カナは赤ずきん役をやった。保護者面談では、担任の若い先生はカホが舞台で自信を持って台詞を言えたことをとても褒めてくれた。

「絵本も、お母さんにおうちでたくさん読んでもらってるんだって話していますよ。だからですかね、いろんな言葉をよく知っていて」

 お母さん、本当によく頑張っていますね!

 その言葉を聞き、菜穂は曖昧に微笑みながら若い先生のはがれかけたネイルへ目を落とした。

 そうだ。私は頑張っている。菜穂は思う。早起きしてカナの好きなパンダの顔をあしらったおにぎりをお弁当箱へ詰めるし、暑い日も寒い日も公園に付き合い、夕食を作りながらひらがなの練習だってみている。夜はカナが眠りに落ちるまで子守唄を歌い、汗ばんだ額を撫でてそっと布団を胸までおろす。

 でもそれは、カナのためじゃない。すべて自分の罪滅ぼしのためだ。カナの三日月型のあざに触れ、毎夜菜穂はため息をつくのだった。


 年の瀬の電車は混んでおり、カナひとり座れる席も空いていなかった。仕方なく菜穂はカナにスカートの裾を握らせ、吊り革を握る。すると、優先席に腰掛けていた女性が席を立った。「どうぞ」という仕草でカナへ微笑みかける。カナは困ったように眉を下げて首を振り、菜穂を見上げた。小さな声で、「カナちゃん、立てるよ」と菜穂へ囁く。

 すると女性は、

「お嬢ちゃん、遠慮しないで。あたしは次で降りるから」

 とにこやかに空いた席へ促した。菜穂の母と同じくらいの歳の頃だろうか。なんて穏やかな口調なんだろう、と菜穂は思った。それから不意に母の尖った語尾と鋭い声、頬に走った痛みが蘇り、吊り革を握る手に力を込める。

 カナはおずおずと優先席へ腰を下ろし、上目遣いに菜穂を見上げると「ごめんなさい」と言った。菜穂の胸が疼く。

「カナ、ありがとうございます、だよ」

 そう言うと、カナは席を譲ってくれた女性へ「ありがと」と早口で言い直した。

 カナはよく「ごめんなさい」と言う。忘れ物をした時も、トイレを失敗してしまった時も、熱を出して菜穂がおぶって病院へ連れて行く時も、おやつを出してやった時でさえ。もちろん菜穂は、そんなことでカナを怒ったことなど一度もない。それでもカナは消え入りそうな声で、「ごめんなさい」と言う。その言葉の裏に「だから、叩かないで」の一言が隠れているのではないかと思うと、菜穂は呼吸が苦しくなる。

 カナのことを叩いたのは、一度きりだ。

 産後すぐから菜穂は不調で、ひとりきりの育児にいつも疲れ果てていた。カナの成長を楽しむよりも、自分の未熟さやできないことばかり不安になり、カナを手放した方がこの子も自分も幸せになれるのではないかと、眠れない夜には泣き止まないカナを抱え、裸足でベランダに立った。なかなか寝付けずにぐずるカナを怒鳴りつける日が増え、ある日菜穂は手を上げた。

 ピシャッと柔らかい肉を打つ音。

 火がついたように泣き喚くカナをあわてて胸にきつく抱き、菜穂はちいさな頭を撫で続けた。自分の心臓の音がドクドクと耳に響き、取り返しのつかないことをした、とさぁっと血の気がひいた。カナの妊娠がわかった時、かたく誓ったはずだった。「私は、叩かない」と。

 ようやく寝息を立てはじめたまだ髪の生え揃わないカナの頭を撫でながら、菜穂は心の中で繰り返した。カナはまだ言葉も喋れない赤ん坊だ。だから、記憶になんて残らない。大丈夫、大丈夫。しかし、カナの手のひらには時間がたっても消えることのない傷跡とあざが残った。そして、菜穂の心にも。

 やがてカナがひとりで歩けるようになり、電車で出かけたある日の帰り道、西日を遮ろうと菜穂が窓のブラインドをおろそうと手を上げた瞬間、カナは首をすくめ舌足らずに言ったのだ。

「ごめんなさい」

 その日から、手のひらの痺れは消えない。


 駅の改札を出て狭い車道をしばらく歩くと見えてきた病院の外壁にはいく筋も煤けたひびが入り、入り口の花壇には枯れたススキがたなびいていた。歩き疲れたカナが脇道にしゃがみ込んでしまったので、菜穂はちいさなリュックと水筒を受け取って腕にかけ、カナをおんぶした。

「ここ、おばあちゃんのおうち?」

 背中にカナの体温を感じながら、「そうだよ」と菜穂は答える。吐く息が白かった。

「おおかみ、いない?」

「いないよ」

「ぶどう酒やパン、持っていってあげなくてよかった?」

 赤ずきんの話をよく覚えている。菜穂は口の端からふっと息を漏らし、答えた。

「いいの。おばあちゃんは、もう食べられないからね」

 母が入院していると聞いた病棟へ足を踏み入れると、背中でカナがはっと緊張するのがわかった。

「なんだか、においがするね」

 カナが言う。菜穂は頷いた。消毒液と尿、それからうっすらと死の匂いが長い廊下に充満している。規則正しい電子音と呼吸の気配はあるのに、言葉や声はなかった。

 菜穂は、入り口のネームプレートを順番に確かめながら冷え冷えとした廊下を進んでいった。時折響くナースコール。微かな呻き声。菜穂の心臓は勢いよく打ちはじめたが、不思議と頭は冷静だった。

 もう、母にあの頃のような力はない。生きる力さえ、もう残っていないのだから。母はとにかく、二言目には菜穂に手を上げる人だった。ティッシュケースやマグカップ、手元にあるものを投げつけることも多く、目元が切れた時はびっくりするほど血が出た。でも、傷は残らなかった。

 ある日、相手よりも上背があることに気づいた菜穂が母を押し倒し、

「あたしはもう、叩かれなくてもわかる」

 そう言って驚いたような傷ついたような顔をした母を残して家を出た日以来、会っていなかった。

 ネームプレートに刻まれた名前に目を細め、カナを背中から下ろして菜穂が病室へ入ると、細く開いた窓から吹き込んだ風がクリーム色のカーテンを揺らし、蛍光灯の反射する床をさぁっと洗っていった。

 一番奥のベッドを覗き込んだカナが怯えた顔であとずさり、

「これ、おばあちゃん?」

 とおずおずと尋ねた。

「そう」

「生きてる?」

「うん」

 菜穂は唇を噛んだ。ずるい。それが、とっさに込み上げた感情だった。ずるい。なぜ、こんなに穏やかな顔で目を閉じているのだろう。

 間もなく終わってゆく菜穂の母は、ひろびろとしたやさしさ、やさしさに似たあきらめをぼんやりとまとっているようだった。

 意地も恨みも消失を前に滔々と遠ざかり、あかるい死のひかりに洗われた顔を前に、菜穂はついかたくなだった心をほどいてしまいそうになる。無力な存在を蔑み虐げはしても、憎むことはないように。菜穂は顔を背けた。

「菜穂ちゃん?」

 弱々しい声が菜穂の耳に届く。語尾は尖っていない。菜穂は肩を震わせ、でも体をこわばらせて顔は向けなかった。

「菜穂ちゃんじゃないよ、カナちゃんなの」

 カナの声がした。菜穂は反射的にカナの薄い肩をつかみ、母から遠ざけようとした。醜くしわだらけになった母は、どう見ても弱者だった。でも、どんなに力を失ったからといって、相手にされた仕打ちを忘れることはできない。私は、嘲笑いに来たはずだ。菜穂は目を見開いた。あの母がどんなにみすぼらしく弱り、苦しみ、孤独であるかを。

「菜穂ちゃん」

 母はカナへ向かってなおも呼びかける。

「あたしね、菜穂ちゃんにずっと謝りたいと思っていたの。ごめんなさい。許してもらえるなんて思ってないけれど、本当にごめんなさい」

 菜穂の心に激しい怒りが込み上げた。今さら、何なの。菜穂は睨みつけたが、母は菜穂の方を見ていなかった。そして幼い子どものように繰り返した。

「ごめんなさい」

 母の窪んだ目の端に涙が光っていた。

 汚い。菜穂は目を伏せた。それに、ずるい。今さら、こんなに優しい穏やかな口調で許しを乞うなんて。鼻の奥がつんと痛くなり、菜穂は咳払いした。これでは、頑なに拒む自分が悪者みたいではないか。

「おばあちゃん、泣いてるよ?」

 カナの困ったような声がした。

「ごめんねって言ってるよ。許してあげる?」

 目を伏せたまま、菜穂は黙っていた。もうほとんど物もわかっていない老人に対して我ながら大人気ないとは思っても、どうしても、うんとは言えなかった。すると、カナが言った。

「じゃあね、カナちゃんが許してあげるね」

 菜穂は、はっとして目を上げた。カナがベッドの柵から手をいっぱいに伸ばしていた。そして、母のからまった白髪をそっと撫でながら、

「もう、いいよ」

 と言ったのだった。

 風が吹いた。クリーム色のカーテンが膨らみ、カナの前髪を散らし、菜穂のスカートの裾を揺らし、清潔な風が病室を洗ってゆく。細く開いた窓から差し込む光に、ほこりがきらきらと踊っていた。

「もう、いいよ」

 その言葉を耳にした途端、菜穂がこれまで何とかかんとか立っているためのよすがだった怒りと憎しみ、それから深い罪悪感が、ささくれを剥くようにはがれ落ちたような気がして、少しだけよろめいた。ベッドの柵に手をつき、菜穂はそろそろと息を吐いた。胸元をつかんだ手のひらから、あの痺れが消えていた。

 もう、いいよ。


 帰りの電車はがらがらだった。菜穂はカナと並んで腰掛け、ひろい窓の向こうを流れてゆく街並みをぼんやりと見つめていた。カナは膝の上に絵本をひろげ、覚えたばかりのひらがなを指さしたり、気に入りのページを声に出して呼んだりしていた。カナの親指の付け根のあざへ目を落とし、菜穂は思った。

 カナに許されることは、きっとないだろう。でも、いつか時が流れて、何かに自分が救われる瞬間が、やって来るのだろうか。菜穂はささくれた手の甲をもう片方の手でそっと包んだ。

 トンネルを抜けると窓から西日がさっと差し、カナの膝の上の絵本を濡らした。カナがまぶしそうに目を細める。

 菜穂が腰を上げ、手を伸ばしてブラインドを下ろすと、

「ありがと」

 少しだけ早口で、カナが言った。


(了)