小説

『柱の傷は、』宮沢早紀(『背くらべ』)

 

 

 線香のにおいがする。これがこの家のにおいだったと思い出す。もったりとして眠くなるようなにおい。お仏壇の部屋にいなくても、なんとなく漂ってくるにおい。

 眼は閉じたまま、今度は耳をすましてみる。一つや二つ聞こえる音があってもいいはずなのに、何も聞えない。カッチカッチという時計の音すらしないのは、おばあちゃんのニンチショーが進んだ頃に時計の音がイヤだと大さわぎして、おじさんが家中の時計を処分したからなのだけれど、近くにある山がこの家から出る音をぜんぶ飲み込んでしまうからだとボクは思っていた。ボクんちのそばには山がないから、外を走る電車の音やどこかの子どもの泣く声やおとなりさんが扉をばたんと閉める音が聞こえてくる。

 つむっていた眼を開けた。ここにはボクんちやボクんちの周りにはないものがたくさんある。立派なお仏壇もあるし、だれだかわからないおじいさんの写真も飾ってある。今は使っていないらしい、ぐるんぐるんのコードがついた黒電話もある。庭には柿の木もあるし、その向こうには山がある。


 気配を感じて起き上がると襖からおじさんが顔を出していた。

「やる?」

手には油性ペンと丸めた雑誌が握られている。雑誌は飛行機の写真が表紙のいつものやつだった。

「みんな帰ってきてからやろっかな」

少し考えてボクはそう答え、おじさんはうなずいた。

 おじさんが引き返そうとした瞬間、庭から玄関までの砂利をじゃくじゃく踏みしめる音と楽しそうな話し声が聞こえてきて、ボクとおじさんの目が合う。

「ただいまぁ」

 先ほどまでの静寂が嘘みたいに、一瞬にして家の中がにぎやかになった。


 飛行機の雑誌を定規にして線を引き、その横に「はる8才」と書き込むと、おじさんは息を吐いた。線を引くのを失敗しないように息を止めていたみたいだった。

「はい、はるちゃん」

六つの眼が黒い線に集まる。はるちゃんは引いたばかりの線の横に置いた人差し指を「はる7才」のところまで下げた。

「やったぁ! いっぱいのびたぁ」

十センチくらいだろうか。はるちゃんの背は確かにのびていた。畳の上で靴下をすべらせて、はるちゃんはくるくる回る。うれしいと回るのは一年前と一緒だった。

「はーい、はいはい、どいてくださーい」

 はるちゃんの脇をするりと抜けて、ともくんが柱に背中をぴたっとくっつけた。はるちゃんは腕組みをしてきびしい目つきでともくんを見る。

「ちゃんとあご引いて」

「引いてる」

「もっと」

「引いてるよ」

「もう少し」

「引いてるってば」

 双子の言い争いが終わるのを見計らってから、おじさんは雑誌をともくんの頭の上に置いた。もう一本、新しい線が柱に引かれる。線はほんのちょっとだけはるちゃんの線より下だった。

「わー、はるに負けたー」

ともくんはくやしそうに顔をしかめたけれど、去年よりもうんと背がのびたからか、どこか楽しげだった。ボクもともくんもそれを口にはしなかったけれど、のびた量ははるちゃんよりともくんの方が多かったかもしれない。

「とも、どきな。次、ゆうくん」

 腕組みをしたままはるちゃんが言うと、ともくんは「へいへい」とおじいさんみたいな顔で柱からはなれた。

「ありがと」

小さい声でそう言ってからボクは柱に背中をくっつけた。柱のかたさが伝わってくる。

「はしらぁのきーずーは、おととーしーのー」

 ともくんが突然、歌い出した。「おととし」のところで声が裏返ったのがおかしくて、みんなで笑った。おじさんもにこにこする。ともくんはみんなが笑って気をよくしたのか、何度も同じフレーズをくりかえした。

「つづきは?」

「ここしか知らなぁい」

 はるちゃんとともくんのやりとりに、もう一度みんなで笑った。実際にボクも「五月五日の背くらべー」までしかこの歌のつづきを知らなくて、それがまたおかしくて、くすくす笑った。様子を見にきていたお母さんとおばさんも一緒に笑ったら、なんだか家ごとゆれているみたいだった。


 この、背をはかって柱にそれぞれの名前と年を記録するイベントには特に名前がついていなかった。ボクは「はしらのきず」と言っていたし、はるちゃんは「背くらべ」、ともくんは「いつもの」と言っていて、おじさんにいたっては油性ペンと雑誌を持って実際に記録をするだけで言葉では何とも表現していなかった。

おじさんがボクの頭の上にそっと雑誌を当てる。頭の上できゅっと線が引かれる音がして、それを合図に柱から背中を離して見てみると、線の横に「ゆう9才」と書き込まれていた。ボクの身長はあまりのびていなくて、そのことはちょっと残念だったけれど、初詣でおみくじを引くのとおなじくらいボクにとっては当たり前の、引いたおみくじが末吉だった時と同じような感覚だった。まあそうかくらいかと思うだけ。その結果を引きずるようなことはしない。

「これで、今年もできたね」

 点検するような目つきで柱を見たあとにそうつぶやき、おじさんは和室から出ていった。


 おじさんはごはんの時と「はしらのきず」をやる時以外はほとんど自分の部屋から出てこない。

前に一度、おじさんが何をやっているのかが気になって、はるちゃんとともくんと部屋をのぞきにいったことがあった。静かだから寝ているのかと思ったら、ベッドに腰掛けて本を読んでいた。普段はケンチョ―の仕事があるんだろうけれど、好きなことができていいなと思った記憶がある。たぶん、今も部屋で一人やりたいことをやっているんだと思う。ボクももっとぼーっとしたり、寝転がってマンガを読んだりしたい。


「ゲームしていいって!」

「やる!」

 おじさんの家に到着した時からしきりに持ってきたゲーム機で遊んでいいかを聞いていたともくんは、ついにおばさんの許可が下りたらしく、パタパタと部屋を出ていった。はるちゃんも慌てて後を追いかけていく。

 ボクはその場に残り、畳の上に寝そべってぼうっとすることにした。「はしらのきず」をやる前と同じように目をつむって耳をすましてみたけれど、しゅぴーん、ぴこーというゲームの効果音や叫び声がひっきりなしに聞こえてきて落ち着かなかった。空いている部屋でごろごろしていたはずのお父さんもいつの間にかゲームに混ざったみたいで、聞こえてくる中に太い笑い声も加わった。はるちゃんとともくんのお父さんは、今年も来なかった。相変わらず仕事が忙しいの、とおばさんが困った顔で言っていた。

 ともくんとはるちゃんがそれぞれ違うタイミングで誘いにきてくれたけれど、たぶんあんまりうまくできないから参加する気にはなれなくて、ボクはおじさんの家を探検することにした。


 和室から出て一番奥の部屋に入る。昔、お母さんたちが子ども部屋にしていたところで、この部屋にもお母さんとおじさんとおばさんの「はしらのきず」がある。ボクとはるちゃんとともくんと同じ三人分だけれど、半年に一回くらいの頻度で記録していたせいか、ボクらのよりも柱はにぎやかだった。

「アスミ11才」

「モモヨ11才」

「ヒロシ9才」

 下から見上げていくと、おばさんとお母さんは十一才、おじさんは九才まで記録があって、それぞれその年で「はしらのきず」をやめたのだとわかった。おじさんと同じ年でやめるとしたら今年で最後。お母さんたちと同じ年でやめるにしても、あと一回しかできない。そう思ったらなんだかさみしくなってしまった。別におじさんたちと同じ年でやめないといけないなんてルールはないのに、なんとなくそうしなくちゃいけないような気がした。

 次にキッチンにつながる畳の部屋に行った。ボクは置いてある座布団をつなげてベッドをこしらえ、寝転がった。この部屋は、おばあちゃんがいた頃は大きすぎるくらいのテレビの音が聞こえてきて、ボクは見えない画面を想像してはうとうとし、いつの間に寝ているというのをここ最近はやっていた。今はお母さんとおばさんのしゃべり声がよく聞こえた。


「どうするんだろうねー」

「ちょっとヒトゴトみたく言わないで」

「ごめん、でもまあ? 元気だからありがたいけどね」

「でも、お兄ちゃんだっていつかは介護が必要になるかもよ?」

 おばさんの「お兄ちゃん」という呼び方から、おじさんの話をしているのだと気づく。お母さんとおばさんは友だちみたいに仲がよくて、二人にしておいたら何時間でもしゃべるけれど、その中におじさんはいつも、いない。それは年が十才近くはなれていることや性別が違うことも関係していそうだけれど、二人とおじさんとの間には大きな距離があった。

「いつまで住みつづけるんだろう」

「一人じゃ広すぎるし、掃除も行き届かないのによく住むよ」

「もしものことがあった時のためにと思ってさ、いろいろ聞くのにうんともすんとも言わないの。もう、やんなっちゃう」

「お母さんの時もそうだけどさ、結局なぁんにも考えてないんだよね」

 おじさんはたしか、五十代半ばだ。すぐにおばあちゃんみたいに倒れたり、死んでしまったりするとは思えなかったけれど、おばさんとしては「もしも」をきちんと考えてほしいみたいだ。顔は見えないけれど、声が怒っていて、ボクの胸はきゅうと締めつけられた。おばあちゃんが元気だった頃はお母さんもおばさんもこんなふうに怒ってはいなかった。そんなことを考えていたら、おばあちゃんを思い出して、今さらいなくなってしまったさみしさがこみ上げてきた。

 もう一度、お母さんとおばさんの会話に聞き耳を立てると、話は塾のことに変わっていた。お母さんが先週末だかに説明会を聞きにいっていた塾の名前が聞こえる。学年はボクより一つ下だけれど、はるちゃんとともくんは春から塾に行くみたいだった。チュージュ、チュージュ、トーキコーシュー、カキコーシュー、モシ……。


 来年のお正月はもう、この家には集まらない。そんな気がした。そのままお母さんたちの会話を聞いていれば来年のお正月をどう過ごすかがわかったのかもしれないけれど、聞くのが怖かった。ボクは急いで体を起こすと部屋から出ていった。


「これで、今年もできたね」

 廊下を歩きながらさっきのおじさんの言葉が頭の中で響く。言葉では表現しないけれど、おじさんが毎年の「はしらのきず」を楽しみにしていることはボクでもわかり、そのことを考えれば考えるほど苦しくなった。


 ボクは一番奥の部屋に行くと、てぎわよく油性ペンを缶から取り出した。「はしらのきず」が終わった時におじさんがしまうのを見ていたのだった。

 お母さんたちの「はしらのきず」の前に立つ。

「アスミ11才」

「モモヨ11才」

「ヒロシ9才」

 目線よりも少し上に書かれた記録はさっき見た通り、それぞれ「11才」、「11才」、「9才」で途絶えていた。

 ボクはつばを飲み込んでから、左手の人差し指を横向きに柱に押しつけてそれぞれの記録の少し上に線を足していった。おじさんのは十一才までになるように二回分。名前と年は書き込んでいる字をまねて書いた。途中からゆっくり書くよりも思いきって書く方がもとの字と似たふうに書けることに気づいて、少し乱暴に書いていった。

 新しくつけた「はしらのきず」を確認して息を吐くと、ボクの手はガマンしていたのをやめたみたいに震えだした。震えているのは怒られるかもしれないという恐怖もほんの少しだけあったけれど、それ以上にやったぞ、やってやったんだというすがすがしさが湧き上がってきたからだった。ボクの体の中には今まで感じたことのないほどの自信が渦巻いていて、何でもできるような気がしていた。

 手の震えが落ち着くのを待ってから油性ペンを元に戻す。缶のフタを左手で開けた時に人差し指が黒くなっているのに気づいた。定規代わりにしていたから黒いインクがついてしまっていたのだった。ボクは大切な宝物を隠すようにセーターのそでを指先まで引っ張って爪だけが見えるようにした。


 晩ごはんの時にでも「来年もまたみんなで『はしらのきず』をやろう」と言ってみようか。お母さんやおばさんがすぐに「いいよ」って言わなかったら、「おじさんだって十一才までやったんだから、それまではやらせてよ」って言い返そう。きっと大丈夫だ。

 深呼吸をすると、線香の香りが鼻じゅうにひろがった。