小説

『空腹の君と僕に』小松波瑠(『牛方と山んば』)

 

 

 雨宿りをしていたら、ヤマンバに遭遇した。

「もう、めっちゃ降るじゃん」

 ヤマンバは鏡を見ながら目の周りの分厚いメイクを確認し、色素の抜けた前髪を整えた。浅黒い指先から鋭く伸びる赤い爪。あんなもので襲われたら、きっとひとたまりもない。

 年の瀬の大学のキャンパス内は閑散としていて、辺りには人がいなかった。突然の雨が作り出した密室にヤマンバと二人きり。少し身の危険を感じてしまう。大丈夫、僕が手に持っているのは芋煮用の大きな鍋だ。いざとなれば、これで交戦・・・いや、戦いは好きじゃない、これを傘がわりに自分だけでもこの場から立ち去ればいい。

 雨は止みそうにない。

「ねぇ、いつ止むの、この雨」

 独り言のようには聞こえなかった。ヤマンバはどうやら僕に話しかけているようだ。チラッと声の方を見ると、青い色をした瞳と目が合った。

「めっちゃ退屈、なんか面白い話してよ」

「ぼ、僕ですか?」

「あんたしかいないじゃん」

 初対面なのに、ものすごい勢いで距離を詰められた。

「僕は、面白い話なんてできない人間ですから」

「なにそれ、草」

 今、“クサッ”って言われた? 臭い? 匂っているのか? もう、この芋煮用の鍋を頭から被ってこの場を立ち去ろう、そう思った時、“グオー”と大きな音がして、ヤマンバはお腹を押さえた。

「お腹すいたぁ」

 その後も、ヤマンバのお腹はグウグウと鳴り続けた。

「私さぁ、バイトクビになっちゃって、生活カツカツなんだよね」

 ヤマンバは一方的に僕に喋り続けている。とても立ち去れる状況にない。

「今日、大学に食料探しに来たんだよね」

「食料・・・?」

「食べられる虫とか草とか、ないかなぁって思って」

「虫、草?」

「私、こう見えて山の近くで育ったんだけど、余裕で虫とか草食べてたんだよね」

「・・・イナゴとかですか?」

「そう! 食べたことある?」

「・・・はい、実はあります」

「マジ? 同胞じゃん」

 まずい、仲間だと思われてしまった。同時に、このヤマンバギャルが“同胞”という言葉を知っていることにも驚いた。

「結構イケるよね、イナゴ」

「僕は好きじゃないですけど」

「じゃあ何の虫が好きなの?メガネ君は」

 勝手にあだ名をつけられた。

「虫はイナゴしか食べたことがないです。昆虫は率先して食べたいものではありませんから」

「私だって、できれば普通のご飯が食べたいよ」

 雨は降り続け、ヤマンバのお腹も鳴り続けている。

 上着のポケットに手を入れてみた。

「これ、よかったら・・・」

 ポケットに入っていたキスチョコふたつをヤマンバに手渡した。

「くれるの?」

 ヤマンバは目を輝かせながら僕を見た。そのストレートな反応に不覚にも少し可愛らしさを感じてしまった。

「ヤバ、神! 超うれしいんだけど」

 ヤマンバの瞳が少し潤っているように見えた。ゆっくりと銀の紙を剥がし、小さなキスチョコを少しずつ味わうように口に運んでいる。本当にお腹を空かせていて、普段もろくに食べていないことが伺えた。

「めっちゃ、美味しい。ありがと」

 雨が少し弱くなった。この程度なら走って研究室まで行けば、そんなにずぶ濡れになることもない。早く行かないと、芋を煮る時間がなくなってしまう。大量に里芋を剥いている研究室の仲間は、きっとキリキリしていることだろう。そう思った時、またヤマンバのお腹の音が大きく響いた。


「なぜ、絶滅危惧種を連れてきた?」

 研究室仲間の佐藤が僕を問い詰める。

「私、人参の皮剥くの、めっちゃ得意だから、お手伝いさせて!」

 ヤマンバは長く鋭い爪の手で包丁を持ち、器用ににんじんの皮を剥いていった。

「絶滅危惧種なのかな?」

「絶滅危惧種だろ。今時見たことあるか、あんなハードなヤマンバギャル」

「お腹が空いているみたいなんだけど、帰ってもらったほうがいいかな?」

「今更そんなこと出来るか?」

 ヤマンバは楽しそうに人参の皮を剥き続けている。これからありつける芋煮のことで頭がいっぱいなのだろうか、顔に笑顔が張り付いている。話によると、学部は違うがヤマンバは同じ大学の学生らしい。そのことが我々の警戒心を少し弱めた。

「稲山、俺はお前のあの言葉が好きだ」

「は?」

「芋煮は人を選ばず」

「そんなこと言ったっけ?」

「芋煮会のたびに言ってるぞ。ギャルだろうが絶滅危惧種だろうがヤマンバだろうが、受け入れよう」

 ヤマンバは里芋と格闘していた。

「なにこれぇ、めっちゃツルツルするんだけど!」

 “芋煮は人を選ばず” はじいちゃんの口癖だ。山形の実家では日常的に芋煮会が開かれた。じいちゃんは老若男女、いろんな人を家に招いては芋煮を振る舞っていた。素性のよく分からない人も家にあげていたもんだから、ばあちゃんや母ちゃんはあまり良い顔をしていなかったが、芋煮を囲う賑やかな空気が僕は嫌いじゃなかった。

 研究室のコンロの上でグツグツと芋煮が煮えていく。

「めっちゃ幸せ。こんなに温かいもの食べたの、久しぶりなんだけど」

 ヤマンバはハフハフと芋煮を頬張り、遠慮なく何度もおかわりをした。酒も好みらしく、ビール、日本酒、焼酎と注がれるだけ飲んだ。気分がよくなったのか、まさに箸が転がるだけで大笑いし、スマホから好みの音楽を流しては、曲に合わせて踊り始めた。残念ながら、一緒に踊るタイプの人間は研究室内には居らず、皆、残り少ない芋煮を頬張りながらヤマンバの舞を傍観していた。毎回しっとりと催される研究室の芋煮会を変な空気にしてしまったのではないかと自責の念に駆られた僕は、いつもより酒が進んでいた。


 目を覚ますと、見慣れた自分の部屋だった。いつもと違うのは隣にヤマンバが眠っていたことだ。状況がよく分からない。身体中の血が一気に引いて冷たくなっていく心地がした。ヤマンバも僕も、服は着ている。大丈夫だ、きっとなにもない。あるはずがない!

「女っ気がないと思ってたけど、お前はああいうのがタイプだったんだな」

 ことを把握するために、佐藤に連絡をした。

「違う!断じて違う!」

 ヤマンバを起こさないように気を使っていた小声が大きくなる。

 上機嫌で酒を煽っていたヤマンバは研究室で寝てしまったようで、そのままにしておくこともできず、連れてきた僕が責任をとるということで全会一致したらしい。僕自身も相当酔っていたので、その辺の記憶が全くない。

「厄介な絶滅危惧種を見つけてしまったな」

 そう言って佐藤は電話を切った。ヤマンバは大の字でいびきをかきながら眠っている。

「この状況、どうしたらいいんだよ」

 僕はプラケースの中の家族に問いかけた。家族はなにも言わず、朽ち木にくっついている。

「頭痛い」

 ヤマンバが目を覚ました。

「お水ある?」

 僕は台所からコップ一杯の水を持ってきてヤマンバに差し出した。自分の家だと言うのに、なぜか緊張してヘコヘコしてしまう。

「ここってメガネ君の家? なんで私ここいるの?」

「・・・すごく酔っ払っていたようです。あの、安心してください、なにもないですから」

「・・・本当に?」

「ないです!ないです!絶対にないです!」

 1ミクロンも疑われたくなかったので、全力で否定した。

「ふーん」

 ヤマンバのお腹がまた大きく鳴った。昨日あんなに芋煮をおかわりしていたのにだ。

「お腹すいちゃった」

「あいにく、いま食べ物は何も無いです」

「このゼリー食べていい?」

 ヤマンバは棚に置いてあるゼリーに手を伸ばした。

「ダメです!それは、この子のゼリーなので」

「カブトムシ?」

 ヤマンバはプラケースの中のカブトムシを覗き込んだ。

「はい。それ、昆虫ゼリーなので、食べても美味しくないかと」

「美味しそう」

「え?」

 ヤマンバの視線はゼリーではなくプラケースの中に向けられていた。

「この子、美味しそうだね」

「え、カブトムシ食べるんですか?」

「美味しいよ、カブトムシ。ボリボリそのまま食べてもいけるけど、天ぷらとかフライにするのもいいんだよねぇ」

 ヤマンバは楽しい記憶を思い出したかのように恍惚としていた。

「この子は、ち、違いますから」

「食べるために飼ってるんじゃないの?」

「断じて、そんなんじゃありません」

「こんなに美味しそうなのに」

 ヤマンバのお腹が鳴る。赤く長い爪がカブトムシに触れようとしていた。

「もっといいものがあります。何か美味しいものを買ってきますから、待っていてください」

 僕は財布を手にコンビニへ向かった。空腹のヤマンバに大事な家族を食べられてたまるか。袋いっぱいの食料を手に、急いで家に戻る。買ってきたパンやおにぎりを広げるとヤマンバは目を輝かせて僕を見た。

「どうして、こんなに優しいの?」

「僕も、お腹がすいているので・・・」

 カブトムシが食べられたら嫌だからです、という本音は胸にしまい、僕もチョココルネの袋を開けた。僕の優しさに意味なんてない。全て面倒ごとから逃げるために起きた、たまたまの優しさだ。


 僕はヤマンバに付き纏われるようになった。家がバレてしまったので、用もないのにインターフォンを押される。

「お腹すいた、何か食べ物余ってる?」

「無いです」

「家、上がってもいい? カブトムシに餌あげたい」

「ダメです」

 バイト先のスーパーにもやってきた。

「メガネ君。こっちにも半額のシール貼ってよ」

「この時間はまだ2割引ですから」

「えぇ、いいじゃん、いいじゃん!」

 店長が“面倒だから、貼ってやれ!”と視線を送る。

 ヤマンバは何処にいても目立つので、アパートの住人やバイト仲間からもあっという間に認知された。メガネで地味な僕との組み合わせはきっと歪に映っているだろう。周囲から僕に向けられる視線が少しずつストレスになっていった。

 休みが明けてからの大学が一番しんどかった。キャンパス内のあちこちでヤマンバは僕を待ち伏せしている。僕が学食で友達とご飯を食べていると、ズカズカと輪に入ってくる。友達は僕に似たタイプばかりで、控えめで地味、そして揃ってメガネだ。ぺちゃくちゃと喋り続けるヤマンバに合わせられるタイプでは到底なく、彼女の存在は明らかに彼らの居心地を悪くさせていた。

 ヤマンバとの関係について考える。恋人では、もちろんない。友達も違う気がしている。関係性を表す言葉がうまく見つからない、そんな関係だ。もうひとつ、彼女が僕に付き纏う理由についても考えてみる。これまで僕は彼女に食料をひょいひょいと与えてきてしまった。僕はきっと、たかられているのだろう。よからぬ想像も浮かぶ。もしかして彼女はまだ僕のカブトムシを諦めていないのかもしれない。大事な家族が衣まみれになって油でジュージューと揚げられている画が浮かび、僕は頭を大きく振った。

「もう、付き纏わないでもらえないでしょうか」

 僕は怯えながらヤマンバに伝えた。分厚いメイクの奥で一瞬、悲しい顔をしたような気がした。

「付き纏ってるかな、私」

「明らかに、付き纏っているかと」

「迷惑?」

「迷惑と言われれば、迷惑です」

「じゃぁ、付き纏わないから、私と付き合って」

 思いもよらない返答に心臓がドギマギした。ヤマンバが僕に付き纏っていたのは、僕に好意があったからだというのか。

「付き合うって、僕とあなたが?」

「それ以外にある?」

 生まれて初めての告白に、どう対応していいのか分からない。一体どんな言葉をかけるのが正解なんだろう。

「属性が違いすぎます」

「ゾクセイ?」

「あなたと僕は違いすぎます」

「違っちゃいけないの?」

 明らかに機嫌を損ねている。

「属性とかじゃなくて、私を見てほしい」

 ヤマンバは僕の顔をじっと見つめている。その目があまりにまっすぐで、僕はすぐに瞳を逸らしてしまった。

「私はあなたが好きなの、あなたはどうなの?」

「僕には、あなたにしてあげられることは、何もありません」


 それ以降、彼女に付き纏われることはなくなった。穏やかな日々を取り戻したはずなのに、今度はどこか寂しさが付き纏い、僕は自分が欲深い人間だということを知った。

 彼女は今日もお腹を空かせているのだろうか。最後に彼女が言った言葉を時々思い出す。「もっと一緒にいたかった」僕はこの先、こんな言葉を誰かにかけてもらうことはあるのだろうか。

 ある日、家に帰るとカブトムシが消えていた。空になったプラケースを見ながら、彼女のことが過った。キャンパス内を隈なく歩き回ってみても、彼女に遭遇することはなかった。

「絶滅したのかもしれないな」

 誰かにそう言われた時に気がついた。僕はもう二度と彼女を見つけることはできない、ということに。


〈了〉