小説

『わたしの羽衣』ツキシタ(『天の羽衣』)

 

 

 私には、愛する夫を産み育ててくれた人を、愛する義務がある。たとえそれが、年老いた小言ばあさんであっても、無邪気な少女であっても、だ。


 「ゴン」―鈍い音が聞こえた。洗濯かごを足元に置き、小走りで居間へ戻る。嫌な予感は的中した。また・・・義母だ。


 「お義母さん、お手洗いの時は遠慮なく声かけていいんですよ」。転倒し、そのまま粗相してしまった義母を起こしながら優しく声をかける。頬をヒクヒクさせながら口をつぐむ彼女は、自分の体が思うように動かないことにひどくショックを受けているようだった。かける言葉が見つからない私は、彼女の腰にタオルを巻きつける。大きな怪我こそはしていないようだが、今月三度目の転倒で彼女の膝には立派な青あざができていた。「冷えないうちに着替えましょう」。肩を借りるのも嫌そうな義母を半分抱きかかえ、風呂場へと向かった。


 この1年で義母の認知症が進行していることに、私はもちろん夫も気づいていた。義母は少女のように歌を口ずさんでうっとりしていたかと思えば、編み物をしながら急に涙ぐみ、それから玄関に佇んでぼーっとしていることが多くなった。

 「お袋はさ、うちにいた方がいいと思うんだ」と夫は言う。かの国の女王が、晩年を夫との思い出が詰まった屋敷で過ごしたニュースを見たらしい。異国の戦地へと向かった主人の帰りをこの家で待ち続けたから、介護施設に移すのは可哀そうだというのが彼の言い分だった。優しい性格の彼が言いそうなことだった。

 「でもねアキノリ、お義母さんの生活を見ているとそんな綺麗ごとは言ってられないのよ」。そうだ。問題は日々増えているあざにとどまらない。火の不始末、分別が全くできていないゴミ箱・・・目を離した隙の出来事が徐々に増えていき、サポートする側も一向に気が休まらない。そんな現状を夫はわかってくれない。いや、わかりようがないのだ。しかし、夫は自分の意見が通らないとひどく落ち込むところがあるので、私はそれ以上の言葉を飲み込んだ。


 梅雨に入り、じめじめした空気が家にも充満していた日だった。湿気で滑りやすい箇所にすべりどめのシートを貼ろうとした時、義母が「ちょっと!」と声を張り上げた。勝手なことをしてしまったか・・・と義母の元へ駆け寄る。すると彼女は焦った様子の私を見て「別にあなたのやりたいことを否定しているわけではないのよ」と優しい口調で話し始めた。

「二階に連れて行って。あなたに見せたいものがあるの」

「構いませんが、二階には以前入らないでほしいと言いましたよね」

「ええ。でも私もようやく決心したわ」

 一体、「今の彼女」は何歳なのだろうか・・・初めて見るその態度を不思議に思いながら、補助スロープに取り付けた電動椅子に彼女を乗せる。


 二階の閉め切られたその部屋は、湿気も相まってかカビのような埃のような、まさに「古い」においが染みついていた。今の今まで、私はこの家には和室があることすら知らなかった。

「押し入れの右奥の桐の箱を取り出してちょうだい」。言われるがままに固い引き戸を開け、埃を被った平たい箱を取り出す。彼女の前に置くと、一度深く目を閉じたあと私に中身を確認するように言った。

 少しがびがびするフタを開けると、鮮やかな朱色の着物が姿を見せた。ほんのり白い椿の花がちりばめられ、花弁の周りには淡い緑と金色の葉が美しく添えられている。思わず見とれてしまうデザインだ。


「お義母さん、これは・・・?」

「前にね、お店でこの着物を見つけた時、あなたに似合うと思ったの。衝動買いね。でも、これを着てもいいと、簡単にはあなたに言えなくてね」。


 つまり、これは義母からの初めての贈り物・・・目頭が熱くなった。着物の綺麗さよりも、義母が私のことを思い出し、私のために買ってくれたという事実が何よりも嬉しかった。



 義母に好かれていない自覚は結婚前からあった。女性との交際経験が無かった夫と、バツイチな上に子どもを作れない私。私たちの出会いは結婚相談所での紹介だった。自分に自信が無い、似た者同士の私たちは何となく運命を感じて意気投合した。しかし、子どもを望めない私との結婚に、義母は初めから難色を示していた。何度も話し合い、納得してくれた上で入籍したにも関わらず、傷つくような言葉を投げつけられたことも覚えている。でもそれを除けば尊敬できる逞しい女性だった。女手一つで彼を大学まで通わせた実績がある。当時女性が働きながら子育てをするなんて、想像を絶するほど孤独で大変だっただろう。だから、どれほど息子のことが大事なのかもわかっていた。



 やっと私を受け入れてくれた―。義母が贈ってくれた着物を見て感情を抑えきれず、涙がぼろぼろこぼれた。そんな私を見て「あらあら、しょうがないわね」と頭を撫でてくれる義母。その手にぬくもりを感じて、初めてこの人のことを母親のように思えた。


 その日は夫に早く着物の話をしたくて、久しぶりにそわそわしながら帰りを待っていた。今思えば、少々ご機嫌すぎたかもしれない。「お義母さん、今夜は好きなものを作りますので何でもおっしゃってください」。「それなら、久しぶりにパフェを食べたいわね」。「パフェですね・・・わかりました」。

 何でも、と言った手前材料が無いとは言いづらかった。パフェなんて作ったこと無いが、果物と生クリームが無いと厳しいことはわかる。この時間から買出しか・・・腰は重いが、近所のスーパーへと向かった。夫が帰ってくるまで1~2時間。お義母さん一人でも大丈夫だろう。


 スーパーからの帰り道、その決断をしたことを深く後悔した。お義母さんを一人置いての久しぶりの外出は、生きた心地がしなかったからだ。自宅に戻って居間のドアを開けた時、お義母さんがきちんと座っていて、今まで感じたことないほど安堵した。私の中で、彼女を失う恐怖がいつもより大きくなっていることがわかる。

 「お帰り。パフェまだ?」無邪気な瞳が私に問いかける。まるで少女だ。「パフェは晩ご飯の後ですよ」。エプロンのひもを結びながら、優しい口調で彼女を諭した。


 いつぶりだろうか。その日は3人で話しながら穏やかな食卓を囲んだ。だから思い切り、気が緩んだのかもしれない。食後のパフェの準備に集中していたら、彼女が席を立っていたことに気が付かなかった。

 何かを打ち付けるような鈍い音がした。トイレから出た夫が廊下に母親が倒れているのを見つけた時。梅雨のじめじめした廊下は結露で濡れていた。



 「あの日、なんでパフェをリクエストしたんだろうな」。遺品整理の休憩中、夫が呟いた。紙たばこの香りが、和室の古いにおいと混ざる。夫曰く、最後にパフェを食べたのは子供のころに母親に連れられて行ったデパートだという。

「ちょうどこの写真の時のかしら?」

 手元にあったアルバムのページをめくる。あどけない表情の男の子がレストランでお行儀よく座っている写真が出てきた。「この時のこと、よく覚えているんだ。七夕の季節でさ・・・」。写真をよく見ようと頁から取り外した時、メモ書きのようなものが2枚、はらりと床に落ちた。拾い上げ、夫は目を丸くする。そして何かを決意したかのように、読んでくれとこちらに渡した。


―スカートをはいてもおこられませんように。 こばやしあきのり

―この子が自由に生きられますように。


 気まずそうに彼が言う。

 「俺さ・・・本当は女の子になりたかったんだ」。


 驚きすぎて、言葉が出てこなかった。いつから?いまでも?それじゃあ私のことはどう思っているの?-聞きたいことは山ほど浮かぶのに。


 「お袋は、気づいてたんだよ。でもそういうのが受け入れられる時代じゃなかった。だから、短冊も飾らずに持ち帰ったんだろうな」。


 夫が淡々と話す一方、私は状況を理解するのに必死だった。結婚してから10年以上経つが、そんな素振りを見せたことが今まで一切なかったからだ。虫も殺せない優しい性格なのは知っていたが、それを女らしいとか、男らしくないとか考えたこともなかった。でも、お義母さんはとっくに知っていた・・・。


 「もしかして」。私は押し入れを開け、下の段に仕舞っていた桐の箱を取り出した。「あの日・・・お義母さんが廊下で倒れた日。私に着物をくれた話をしたよね」。そう言って箱の中身を広げると、夫は膝から崩れ落ちた。驚きと喜びと、懐かしさが入り混じった顔で言う。「よく覚えているんだよ。俺、あのデパートで浴衣をねだったんだよ。ちょうどこういう柄の・・・」。


義母の言葉が蘇る。


―これを着てもいいと、簡単にはあなたに言えなくてね。


 そうか、あの時あの人は私ではなく、息子に着物を贈っていたのか・・・。

母親の思いに気づいて涙が止まらない夫と、いろんな感情でぐちゃぐちゃになった私。どうしても、どうしても、その日私たちは遺品整理を続けられなかった。それから眠りにつくまでのことは、私もよく覚えていない。


 墓参りに、義母が残した着物を着て行こうと提案したのは夫だった。後になって気が付いたことだが、着物はよく見ると虫食いがひどくて着られる状態ではなかった。それでも捨てるという選択肢は二人にはなかった。修繕できる専門店を探し出し、私たちの手元に戻ってきた頃には1周忌をとっくに過ぎていた。


 「お義母さん、納得いかないかしら」。墓地の階段を上りながら、夫に尋ねた。

 二人で話し合った結果、着物は結局私が着ることになった。夫は比較的小柄な体型で、着られないことはなかったはずだ。でも、「今の俺であることを選んだのは、俺だからいいんだよ」。出かける前にそう言って、こっそり教室に通っていたという彼は手際よく私に着物を着せてくれたのだった。


 「大丈夫だよ。俺は、君に着てほしいと思ったんだ」。

 慣れない着物で歩きにくい私の手を優しく引いてくれる彼。男性として生きていくことを決めた時、私では想像できないくらい色々な思いをしたに違いない。でも、もし彼が女性になることを選択していたら私とは出会わなかっただろう。

 「これが今の俺だよ。そして一番幸せな形だよ。ありがとう」。墓石に話しかける夫。彼の言葉にうそは感じられない。私は、無言で手を合わせた。


 「お義母さん、パフェが食べたかったんじゃなくて、食べさせたかったのかもね」。

 ふと、私はあの日のことを思い出した。夫はたばこの煙を吐き出しながら一旦考え、「どうだろうね」と返した。

 「でも、3人で食べられたらそれで良かったんじゃないかな」。

 私は小さく頷いた。


 夕暮れの赤い空を見上げて、駐車場でそんな会話をした。

 雲が、いつもより早く動いているような気がした。