あろうことか、お釈迦様が極楽さんぽを楽しんでいる。
極楽は本来、阿弥陀如来様のテリトリーである。そこをお釈迦様が逍遥しているのだ。
これがどのくらい場違いかと言うと、ドラゴンボールにドラえもんが登場するくらい、新海誠作品にトトロが登場するくらい、長嶋茂雄が阪神を監督するくらい違う。完全なカテゴリー違いだ。しかしそもそもこの物語の起源がそういう設定で、言わば宇宙のルールみたいなものなので、ここは潔く飲み込むしかない。
極楽はいいところのようだ。部外者なので本当のところはよく分からないが、お釈迦様は極楽の心地よさを全身で感じていた。みずみずしい朝靄を掻き分けるようにぶらぶら歩いていると、どこが光源なのか、全体的に露出オーバー気味の世界は白く輝き、起きながら白昼夢を見ているようだ。
真っ白な蓮の花が咲き誇る池の縁に差しかかったお釈迦様が、花の香りを嗅ごうと身を乗り出すと、透明度が高すぎる水は深く深く水晶のようにどこまでも透き通り、水底さえも突き抜けて遥か彼方、どのくらい遠くまで見通しただろう、地獄の底が、三途の河や針の山、賽の河原までくっきり見えた。
お釈迦様がさらに身を乗り出して覗き込むと、地獄の底にある血の池で、神田多恵(カンダタエ)という女が一人、罪人たちと揉みくちゃになりながら蠢いている。
この神田多恵という女、夜の街でポールダンサーを生業にしていた。程よく肉のついた豊かな肢体を全て曝け出すようなセクシーなポーズで、男という男を虜にし、貢がせるだけ貢がせては捨てるを繰り返し、歌舞伎町の女王として君臨していたが、独占欲に駆られた熱狂的な贔屓客のナイフで滅多刺しにされ殺された。店の黒服たちが客を取り押さえるも時すでに遅く、多恵の周りは真っ赤な血が蓮華座のように広がっていたという。彼女の死はよくある風俗嬢とその客との痴話喧嘩として片付けられ、あまつさえ政治家の汚職事件や芸能人によるレイプ事件等のビッグニュースにかき消され、新聞の社会面の片隅に小さく取り上げられて終わった。
SNS上では因果応報、自業自得と吐き捨てられた“人でなし”の彼女も、当の本人が自覚していたかどうかはさておき、ただ一つ、善いことを行っていた。ポールダンサーとして駆け出しの頃、公園の登り棒でスピンの練習をしていると背後から乾いた拍手が聞こえた。振り返ると薄汚れた老人がベンチに座っている。垢でテカテカの顔から推すにホームレスだろう。「冥土の土産にいいものを見させてもらった」老人は多恵に手招きすると、汲み取り便所のような臭いのするグラウンドコートのポケットから黒ずんだ硬貨を渡そうとするが、多恵はキッパリ断った。「じいさん、あたしのダンスはこんなもんじゃない。いつかお店に見に来てよ」「そうだな。きっと素晴らしいステージなんだろうな」力無く笑う老人の目は、遥か遠い宇宙の果てでも見ているかのように黒光りしていた。
この老人が公園に出入りする中高生のグループに「臭い」「汚ない」ことを理由に嬲り殺しにされたのは、それから一週間後のことだった。文字通り冥土の土産になってしまったが、薄れゆく意識の中で老人が最後に思い浮かべたのは、月明かりの中ポールと一つになりスピンする多恵の姿だった。
お釈迦様は地獄で苦しむ多恵を見ながら、この女の踊ったポールダンスというものがホームレス男性にとって人生最後の眼福となった善行の報いに、できれば地獄から救い出してやろうと考えた。幸い、そこへ阿弥陀如来様が通りかかったので、お釈迦様は声をかけ、阿弥陀様が背負う後光のうちとびきり長い一本の光芒を譲り受け、白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ真っ直ぐにそれを下ろした。
この血の海はどこから始まり、どこで終わるんだろう。
多恵は血の池で、罪人たちと浮いたり沈んだりしながら漠然と考えていた。地獄の責め苦に喘ぐ罪人たちの声が始終聞こえてくるが、慣れとは恐ろしいもので、今となっては冷蔵庫のコンプレッサー音程度にしか気にならない。暗闇におどろおどろしく浮かぶ針山も、今では自分の位置を確かめるためにはちょうどいい。
多恵自身、血の海に投げ込まれた当初は激しく咽び泣いていたものだが、そうすると鼻から口から血が流れ込み、それで咽せたり吐き戻したり、もう死んでいるのに何度も死にかけた。最近では溺死体のようになすがまま漂うことで、実害を最小限に食い止めるよう、“人でなし”なりに工夫していた。
いつものように血の池を漂い死んだ魚のような目で空を眺めていた多恵は、遠い遠い雲間から一筋の光が差してくるのに気づいた。あまりの眩しさに目を細めよくよく見てみると、金色に輝くポールが自分に向かってくるではないか。多恵は身体の底の方、恐らく芯にあたる部分が疼きだすのを感じた。多恵にとっては相棒のようなポール。生活の糧だったポール。このポールをどこまでも上っていけば、地獄から抜け出せるかもしれない。何より身体がポールを欲している。多恵はポールに飛び移り、両手でしっかり掴むと、巧みに四肢を使って上へ上へと上り始めた。死ぬ寸前まで現役のポールダンサーだったし、子どもの頃は校庭の登り棒を上り下りしていた多恵にとって、こういうことは造作もないことだった。
とはいえ地獄と極楽の間は何万里となく離れている。そう易々と“地獄の果て”へは出られない。しばらく上るうちに多恵はエネルギーを使い果たし、もう1ミリも上れなくなってしまった。腕を少し休ませたい。多恵はナイトクラブでショーを務めていた頃のようにポールを股の間に挟んで逆さまになり、遥か下の地獄を見おろした。さっきまで溺れていた血の池は、闇の中では赤黒い染みにしか見えず、幾度となく身を貫いた針山も、遥か下にある。多恵はポールに脚を絡ませたまま、「このまま上ってけば脱出できんじゃね?」と内心ほくそ笑んだのも束の間、血の池の方から何百何千、ポールを伝ってうようよと這い上がってくるゾンビの群れ、ならぬ罪人たちの群れが上へ上へと、一心不乱に上ってくるのが見えた。
連綿と続く罪人たちの重みで黄金色のポールが振り子のようにゆらゆら揺れる。振り落とされないようポールにしがみついた多恵は、今初めて恐怖を感じた。このままでは奴らに足を引っ張られるかもしれない。万が一奴らの重みでポールが折れたら、多恵もまた地獄まで逆戻りだ。ネガティブな思いが次々浮かんでくる。これはあたしの元に降りてきたポールだ。あたしのポールだ。罪人どもを蹴落としてやろうか。ポールをぐっと握り締めると、自分の醜く歪んだ顔が映っている。多恵は自嘲気味に笑った。
てか、あたしも罪人じゃないか。
金蔓を見つけるためなら何だってした。ほぼ裸のような衣装で踊るのは日常茶飯。ポールに絡みつき腰を振って見せたことも、舌なめずりする男たちの前でポールを舐めて見せたことだってある。そうやって虜にした男に絡みつき、その人生をしゃぶれるだけしゃぶり尽くしてはポイ捨てしてきた。生きるために。いつか自分の店を持つために。そう、あの男に刺されるまでは。本当にクソだ。クソオブクソだ。借金で首が回らなくなるほど貢いでくれなんて誰も頼んじゃいない。
でもそれももう終わりだ。死んじゃったんだから。
これからは、あたしはあたしのポールダンスを踊る。これまでとは違う、誰かのためじゃなく、あたしのためのダンスを!
多恵は改めてポールを握りしめ、大きくスピンした。
白く柔らかな肢体が美しい弧を描いた。
大丈夫、まだ舞える。
地獄の責め苦を何度もリプレイされて身も心もボロボロだったが、ポールダンスに必要な体幹は衰えちゃいない。
もっともっと、高みを目指そう。
罪人たちは握力が持たずにどんどん脱落してゆく中、多恵はポールと一つになり、ダイナミックな技をこれでもかと言わんばかりに繰り出した。ハンドスタンド、スピン、チェアスピン、レイバック……そしてクライム。
極楽からの光を浴びて、多恵は光り輝いていた。
お釈迦様も阿弥陀様も瞬きするのを忘れるくらい、多恵の自由奔放なダンスに釘付けになり、もっとよく見ようと前のめりになるあまり危うく地獄に落ちそうになった。
いわゆるダンシングハイというやつだろうか、もっと高く、もっと美しく、上へ上へと目指した多恵は、あっさり極楽へ到達した。
お釈迦様は、想定外の展開に唖然とした。
ただ一つの善行に報いるために与えたチャンスだったが、まさか本当に上って来ようとは。
人間とは出る杭は悉く打ち、レベルの低い者同士、足の引っ張り合いをするあさましい生き物だと思っていたのだが、これはどうだ。
一人の女の「踊りたい」という純粋な思いが、宇宙のルールを壊したのだ。
「アンコール! アンコール!」
隣りの阿弥陀様が後光を点滅させ声を枯らしている。カオスだ。お釈迦様は頭を抱えた。
しかし。
こういうのも悪くないのではないか。お釈迦様は悟りのような境地に達した。
そもそも私がここにいること自体、番狂わせなのだから。
多恵の全身から玉のような汗が噴き出し、一粒一粒が宝石のように煌めいている。その恍惚とした表情には独特の艶がある。
この女は己れのダンスの力で極楽を勝ち取ったのだ。女の好きにさせればいい。お釈迦様自身もまたルールから自由になった。
蓮池の白い花々は、多恵の熱情にもお釈迦様の動揺にも一切頓着なく花びらを閉じ始め、蕾へと戻ってゆく。正午が近いのだろう。お釈迦様は阿弥陀様に誘われるがまま、ランチへ向かった。
「我々も、彼女にしゃぶり尽くされてしまうのだろうか」
我に返った阿弥陀様が不安そうに呟く。お釈迦様は即答した。
「いいんです。しゃぶり尽くされても、狂っても。そもそも世界が狂っているんですから。まともでいようとすること自体が間違っているんです」
極楽に辿り着いた多恵は、地獄からずっと自分を抑圧していたものを突き抜けた感覚はあったが、ここが極楽かどうかはよく分からなかった。
さっき仏像みたいな二人が目を細めて多恵を見ていたが、あれは一体誰なんだろう。かかったかな、と多恵は思った。
いや。もう誰かに媚びる必要などない。
多恵は鼻腔を広げて、白い蓮の蕾から漂う何とも言えない残り香を掻き集めるように吸い込んだ。
ここが極楽でも地獄でも構わない。
さっきの仏像顔が誰でも構わない。
多恵は思った。
踊り続けよう。これからも。
誰のためでもない。自分のために。
ポールダンスが、好きだから。
蓮池の中に突き刺さったままの黄金色のポールを抱いて、多恵はくるくる回りながら自分のポールダンスを踊った。
その白く伸びやかな肢体は、蓮の花のようだった。