小説

『携帯電話』浴衣なべ(『檸檬』)

 

 

 過去のトラウマが私の心を終始押さえつけていた。朝、学校の校門をくぐるたびに忌まわしい記憶が鮮明さを増し、心の中で大きく膨れ上がる。普段萎んでいるそれは、校内に入ったことをきっかけとして私の心を圧迫してきた。私は学校にいる間中、ずっとその存在を感じていた。いったい私はいつまで、この贖罪のような瞬間に耐えなければならないのだろう。

 今の自分に不満があるわけではない。むしろ、能力の低い私としてはよく頑張っている方だろう。昔の私を知っている人が今の私を見れば、きっと両手放しで褒めてくれるはずだ。得体の知れない芋虫が美しい蝶に生まれ変わるように、私は努力して変わった。

 私が小学生のころ、クラスでいじめが行われていた。対象は、私ではない。でも、私が親しくしている友人だった。彼女は口数の少なく大人しい子で、集団の中にいても自ら言葉を発さないような子だった。私も教室の中では彼女と同じような存在だったので、似た者同士の私たちは自然と一緒にいるようになった。頻繁に言葉を交わし積極的に親交を深め合う間柄ではなかったが、無言で同じ空間にいても気まずさを感じることのない、かけがえのない存在だった。

 それがある日、彼女だけがイジメの標的にされてしまった。何がきっかけでそうなったのか、今はもう覚えていない。体育の授業で一人だけ体操服を忘れただの、授業中、先生にあてられて質問に答えられなかっただの、そういう些細でどうでもいいことだったと思う。とにかく、彼女は教室という狭い空間で活発なグループに目を付けられてしまった。

 初め、彼女を獲物として認識したグループは、シューズを隠したり面倒な掃除当番を彼女に押し付けたり、後で冗談だったと言い逃れ出来るようなことをした。その線引きはとても絶妙で、法律に詳しい犯罪者が決して証拠を残さないような、手際の良さだった。

 被害に遭った彼女は直接的な言葉こそ発しなかったものの、明らかに困惑しており、どのように対処すればいいのか分からずただ黙って耐えていた。そんな彼女の隣で私は、運が悪かったね、まあ、明日にはこの災難も収まっているよ、というような苦笑を浮かべ、彼女を助けてあげていた。

 しばらくそういう時間が続くと、イジメのグループは彼女が抵抗しないということを学習した。そして、いよいよ本格的に牙を剝き始めた。

 教科書を破ったり、彼女が個室トイレに入ったときバケツで水を掛けたり、明らかに痕跡の残る行動を起こすようになった。そして、言葉を発さず俯いてただ黙っている彼女を見て、楽しそうに笑っていた。どうして、他人が困っている様子を見て、面白そうにしているのだろう。当時の私にとって、そのグループは物語に出てくる未知の生物の様に感じられた。

 当然、行為がそこまで露骨になると、クラスメートたちは彼女がイジメられているという事実に気づき始めた。クラスメートたちが気づき始めると、彼女の雰囲気が少し緩んだような気がした。これできっと、イジメがなくなるだろうと考えたのだ。自分で声を上げることは出来なかったが、誰かが先生に報告してくれると想像したに違いない、と。どうして私が彼女の思考を察することが出来たのか、それは、私も似たようなことを思っていたからだ。

 しかし、意外なことに事態は何も変化しなかった。クラスメートたちはイジメが行われていることに気づいたというのに、そのことを誰も先生に報告しなかった。皆、見て見ぬ振りをして過ごそうとしたのだ。その事実に気がついた時、私は憤った。どうして、クラスメートたちは彼女を助けようとしないのだ、不義理じゃないか。

 しかし、その思いは私を自己嫌悪に陥らせた。いったい私は何様なのだろう。クラスメートたちの行為は、今まで私がしていた行為そのものではないか。彼女がゆっくり静かに傷ついていく過程を、一番近くにいながら見ているだけで助けようとしなかった。私の罪は他の人達よりも重いのではないか。

 やはり、私たちは似た者同士だったのだろう。私が自分の罪を自覚すると同時に、彼女も同様の考えに至ったようだ。それまで、自分の不運を嘆きつつも私のことを数少ない友人だと思っていてくれたようだったが、その認識を改めたようだった。

 彼女にとって私は友人ではなく、他のクラスメートたちと同じ傍観者という立場に位置付けられた。いや、近く、長く傍観を決め込んでいた分、その罪を上乗せさせられたのだろう。彼女が私を見る目には、冷たく鋭いものが込められるようになった。

 その圧は本当に僅かで他の人ならば気づかないようなものだったが、私に影響を与えるには十分だった。

 私は彼女から距離を取るようになり、やがて、彼女は学校から姿を消した。

 彼女が学校に来なくなって私が最初に考えたことは、イジメの標的が私になることへの懸念だった。ここでも彼女の身を案じるのではなく、自分のことばかり考える己の醜さに後悔を覚えるのだが、当時の私は保身以外に考える余裕がなかった。

 しかし予想外にも、彼女をイジメていたグループが私に悪意を向けることはなかった。そのグループは他に楽しめるものでもあったのか、彼女が視界にはいらなくなると自然にイジメを行うことを辞めてしまった。なんてことはない。彼女はただ、暇つぶしの消耗品として扱われただけだったのだ。

 彼女の存在と引き換えに教室からイジメはなくなり、クラスメートたちは何事もなかったかのように平穏を取り戻した。けれど、私だけ以前の自分に戻れずにいた。目の前でイジメが行われ、それを見て見ぬ振りした事実は、私の記憶の中に決して消えることのない楔となって深く突き刺さったままになっていた。

 あれから幾年か過ぎ、私はそれなりに成長した。少なくとも、地を這う芋虫が空を舞う蝶に変化するくらいには。しかし、現実は残酷だ。いや、他人から見れば公平だと写るかもしれない。何故なら、またしても私のクラスでイジメが行われるようになったからだ。

 今回のイジメのきっかけは明白だった。イジメられている生徒の外見や言動が他の生徒と少し違ったからだ。彼は他人と喋る時必要以上に緊張しているのか、顔を真っ赤にしてよく言葉を詰まらせていた。制服はいつもシワがついており、肩にはうっすらとフケが積もっていた。

 高校生というものは小中学生と比べ異性を気にする確率が高くなるため、多少なりとも外見を気にし始める。そんな中で外見を気にせず少しも改善しようとしない彼の外見は、教室の中で明らかに浮いていた。

 だから、クラスの活発なグループが彼をターゲットに選ぶのは、もはや自然の摂理のように思えた。

「ねえ、○○ちゃん」

 ある日の休憩時間中、女生徒が私に親しそうに話しかけてきた。彼女は、クラスの活発なグループと交流が盛んな子だった。そういう子から話しかけられるくらいには、私もクラスの中に溶け込んでいた。

「クラスの連絡網が出来たんだよ。〇〇ちゃんも入れてあげるね」

 そう言うと彼女はSNSのグループに私を招待してくれた。そのグループ名は『連絡網』だった。内容を覗いてみるとなんてことはない、学校非公式の私的なSNSグループだった。ただ、驚くべきはクラスのほとんどの子がそこに加わっていたことだ。

 こういう集まりは仲の良い友人だけで固まり、普段、接点の少ない子はお呼びがかからないものだ。それをここまで高い参加率にするとはなかなか大変だっただろう。

 もちろん、ただ声を掛けられ、なし崩し的に参加させられた生徒も何人かいるはずだ。実際、参加人数と既読数が必ずイコールとはなっていなかった。

 私は招待されたことでそのチャットを閲覧し発言する権利を得た。放課後、頻繁に更新されるやり取りを眺めていると、心がざわつく文面を見つけた。

「明日××のシューズ、誰か隠せよ」

 それは授業の要点を相談する内容だったり、体育の内容が長距離走だったことを嘆いたり、学校生活を綴ったメッセージのやりとりの中で、あまりにも不穏な内容だった。

 どうやら、イジメの首謀者と思われる生徒が、面白半分で書き込んだようだ。

 一瞬、私の精神状態は小学生の頃まで戻る。贖罪の時は、今しかない。私を今現在も苦しめる黒い影を払拭する機会がやって来たのだ。

 無論、私がこの書き込みを諫めたところで、昔の彼女が救われるわけではない。けれど、非常に情けない話だが、今、私が行動を起こすことで、少なくとも今の私が救われることが出来る。

 私は震える手で、特定の誰かを皆でからかうようなことをしてはいけない、という趣旨の文章を何度もミスタップしながら完成させていく。そして、いよいよ送信しようとしたその時、携帯電話から新着メッセージを知らせる通知が来た。

「いいねそれ」

「面白そう、やろうやろう」

 新たに表示されたメッセージはイジメを後押しするメッセージだった。普段、皆と接している私ならば分かる。彼らは決して悪い子たちではない。日常生活を送れる社交性を持ち、勉強に精を出す、普通の子たちだ。それが今では、私と違う楽しみを見出した化物の集団となっていた。

 やはり、皆と私は違う。

 それを認識した瞬間、私は打ち込んだメッセージを消去した。

 翌朝、携帯電話のアラームで目を覚ました。不快な音を発し続ける携帯電話を操作してアラームを止める。目は覚めたがどうにも体を起こす気になれない。ベッドの中で携帯電話を握り続ける。

 昨日の『連絡網』で行われた内容を思い出し身震いをした。携帯電話の表面を見てみるとタッチパネルはツルリとした滑らかな表面をしており、とても禍々しいものを伝えられるツールとは思えない。私は意を決して体を起こすと、学校に向かうための準備を始めた。

 怖いことは二つある。1つ目は、いつの時代でも教室の中にいるだけで攻撃の対象にされてしまう可能性があること。そして2つ目は、結局、私が小学生の時に感じが後悔は、何も活かされていないということだ。

 朝、学校の校門をくぐると、今までとは比べ物にならない気持ち悪さが私の心を覆いつくした。それは今までと形が変わっている。表面から刺々しいものが無数に生えており、私の心を容赦なく突き刺した。

 この棘を一本ずつ抜くことなどできるのだろうか。それにはどれだけ途方のない時間がかかるのだろうか。ああ、もう嫌だ。昔のトラウマも、今の教室も。私はポケットの中の携帯電話を強く握りしめた。

 その時、私の頭にひらめきが起こった。それはなんの脈絡もなく、誰の益にもならない、まったく意味のない行為に思えた。けれど、出血し続ける私の心から痛みを取り除くことが出来るのではないかと期待出来るものだった。

 私が教室に入ると始業を告げるチャイムが流れた。日直が席を立ち、「起立」と号令をかける。皆、訓練された兵隊の様に日直の言葉に従い、「礼」の言葉と共に私に首を垂れた。

 私は密かに姿勢を動かして××くんの足元に注目する。彼はシューズを履いておらず、靴下のまま床の上に立っていた。

 それを見た瞬間、私の精神は小学生のころに戻っていた。もう迷わない。私は、後悔の元を断つため携帯電話を取り出すと、119番通報をした。

「〇〇ちゃん?」

 教壇の近くに女生徒が不安そうに私のことを見つめる。ああ、きっと彼女の視線は、私がイジメを行うグループを見つめていたときと同じ、理解の出来ない生物を眺める時の視線と同種のものなのだろうと考えた。

 私は淀みなく学校の住所を告げると、通話を終了して携帯電話を教壇の上に置いた。ディスプレイは××くんのシューズを隠そうと提案した画面を表示しておいた。そして、そのまま無言で教室を出た。

 教室から生徒たちのざわめきが聞こえてくる。当然だ。昨日まで新人ながら一生懸命勉強学業を教えてくれ、年が近く友達のように感じていた教師が、わけの分からない奇行を起こし教室から出ていったのだから。

 廊下を歩いていると火災を知らせる発信機があったので、それもついでに押しておいた。途端、目覚ましのアラームとは比較にならない警報音が学校中から鳴り響き始めた。私の奇行で××君に対するイジメを有耶無耶に出来たらいいなと考えた。

 いやいっそ、学校で本当に火事が起こって全て燃え尽きてしまえばいいのだ。

 イジメを行うグループや、それを見て見ぬ振りした昔の私自身も。

 そんな空想を愉快に想いながら、私は帰宅するため下駄箱へと向かった。