死ぬなら海にかぎる。男はそう決めていた。
おもむくままに車を走らせ、偶然たどり着いたこの海岸の砂浜に、男は立っていた。
さほど大きくもない海岸で、秋の肌寒い日だったが、空は青く、海も青かった。
まばらに人の姿もあった。
若いカップルが砂浜にしゃがんで話している。
サラリーマンが携帯電話で話している。
白いロングコートを着た女が海の方を見て立っている。
杖をついた老夫が歩いている。
波打ち際にも何人かの人がいた。
こんな寒い日にみんななんでわざわざ海にくるのだろう。
男は思いながらそれらをなんとなく見渡して、それからまっすぐに海をみた。
男がここに来てどれくらいの時間が経っただろうか。
(まったく、意味なんてなかったな、おれの人生は。なんでこうなってしまった。
まあいい、もう終わるんだ、ここで。35年のおれの人生が)
男は昔付き合っていた女の何気ない言葉を思い出していた。
肉を食べる時、彼女はいつも言っていた。「牛はエライ、死んでもこんなに役に立つ」
確かに、と男は思った。食われるために死んだんだが、とも思った。
海は穏やかだった。男はまだ、海を見つめていた。
(海へ向かってまっすぐ進めば、終わる。海の底で死んで、魚らにこの身体を
くれてやろう。最後くらい、何かの役に立とう)
男はジャンパーのポケットに手をつっこんだ。大きな石ゴロが1つずつ両ポケットに入っている。
(大丈夫だ、これがあれば浮かんでこないだろう…)
男は大きく息を吸い、吐いた。一歩、踏み出した。波が寄せ、つま先を濡らした。
じわじわと冷たい水が靴に染み込んでくる。二歩、三歩、進んだ。
両足が海に浸かった。つま先の感覚がなくなりつつあった。
寄せる波でズボンは太もものあたりまで濡れ、ひんやりと肌に張り付いた。
(しっかし、冷たいな…)
一瞬足元に視線を落とし、ふたたび海へ向き直って、さらに、一歩、二歩…進まずに、後ずさった。
(やっぱり…もう少し大きな石を探そう)
男が波打ち際を離れようとした時、視界の端を何かがとらえた。
それは男から少し離れた波打ち際、60歳くらいのおっちゃんが木の棒を両手で握り、一生懸命に砂を掘っていた。掘っているように見えた。
おっちゃんが何か掘っている。しかし掘っても掘っても、寄せてくる波に、穴は埋められた。
(なにを掘ってるんだ、探しものか?こんなとこで?)
まあいいや。と、男は再び目の前の海を見た。海を見ながら横目でおっちゃんを見た。
(落としものか?なにを探してる?いつからああしてる?)
おっちゃんは掘り続けていた。
(…魚の役に立つ前におっちゃんの役に立とうか)
男はゆっくりと、若干カニ歩きでおっちゃんに近づいた。
おっちゃんはひたすらに堀り続けている。
おっちゃんは、男が近づいてきても全く気がついていないのか、あるいは気にしていないようだった。
「あの…なにしてるんですか?」男はおっちゃんに話しかけた。
おっちゃんはチラッと男を見たが、なにも答えずまた掘り続ける。
男はおっちゃんにさらに近づいた。
「おっちゃん、なにしてんの?探しもの?手伝いましょうか?」
おっちゃんは男を無視して掘る。波が寄せる。穴は波に埋められる。おっちゃんが掘る。波が寄せる…
「こんなとこで砂なんか掘ったって、なんにも出てきませんよ」
おっちゃんは答えない。
(…時間の無駄だ。)
「…返事くらいしろよな」
男は小さく吐き捨て、諦めてそこを離れようとした。しかし、心に何かが引っかかって、また、おっちゃんを見た。そしておっちゃんの握った棒の先を見た。
点、線、曲線、曲線、
波にさらわれる、
また、点、線、曲線…
(あれ?書いてる?)
「おっちゃん、書いてる?掘ってるんじゃなくて?」男は聞いた。
おっちゃんは答えずに書き続ける。
「なあ、おっちゃん、」
男が言いかけた時、白いロングコートの女がいつの間にか男たちのそばにいることに気がついた。
女はいかにも高級そうなコートのポケットに両手を入れて、肩をすくめ、座っていた。少し寒そうに見えた。
男と同じ歳くらいか、もう少し若く見えた。
女はあきらかにこっちを見ていた。
「なんですか?」男は聞いた。
女は答えず、おっちゃんを見ている。
「何?用がないんならむこう、行ってくんない?」男はまた言った。
「どこにいようが、わたしの自由だ」おっちゃんを見ながら面倒臭そうに小さく答えた。
おっちゃんは二人のことなど全く眼中にないようで、書き続ける。点、線、曲線、曲線。
「なあ、おっちゃん、何て書いてんの?あれ?もしかして『文』って書いてんの?」
男は続けた。
「なぁ、『文』ってなんだよ、消えちゃったぞ」
「ほっといてあげなよ」女が言った。
「なんだ、あんた、関係ないだろ。あっちいけよ」
「彼氏待ってんのよ、ほっといて」
男はあきれた様子で短くため息をつき、女を無視した。
「おっちゃん、なに書いてんだよ、すぐ波に消されるんだから」
「好きにさせてやりなよ」
男は女を振り返り怒鳴った。
「意味ないだろ!なにを書いたって、どうせ消えちまうんだよ!あんたもどっか行けよ、そんな真っ白のコート着てこんなとこで彼氏と待ち合わせなんかしてんじゃねえよ、早く消えろよ!」
女は立ち上がり、コートについた砂も払わずに、男に近づき、言った。
「何がいけないのよ。消えたって別にいいじゃない!意味なんてなくたって。なんでもかんでも意味なくっちゃダメなの?全てのことに意味があって正しくないとダメなの?」
女はまくし立てて続ける。
「あんたは正しいの?あんたのやることには全部意味があんのかよ!」
そう言って、ドン、と男を突き飛ばした。
男は海に倒れ込み、尻もちをついた。飛沫があがり、ずぶ濡れになった。
男は立っている女を見上げ、言った。
「…なんだよ、訳わかんねえ、誰なんだよあんた、意味わかんねえよ」
男は視線を落とし、自分が浸かっている海面を見た。
「くそ…冷てえなあ…最後くらい、きれいに終わらせてくれよ」
女は男を見下げて言った。
「…甘いね」
その間もおっちゃんは書き続けている。
(なんだよくそ、最後の最後まで、くそ…)
海に浸かってうなだれていた男は、おもむろに立ちあがった。
そしておっちゃんの棒を奪い取り、思い切り遠くの海へ投げ捨てた。
ボチャン。小さく波紋が広がった。
海は穏やかだったが、上潮で波が近づいてきていた。
おっちゃんの足も、女のコートの裾も波に濡れた。
おっちゃんは棒の消えた方を見て立ちすくんでいた。
「あーあ…」
後ろの方から声がした。
男が振り返ると、いつの間にか周りに人が集まっていた。
カップル、サラリーマン、老夫、その他にも何人かが心配そうに、あるいは興味深そうに男らの様子を見ていた。
男はバツの悪さと足の冷たさを感じながら、頭の片隅で気がついた。
(そういえばこの白いコートの女、おれがここに着いた時にはすでにいたような。あれ?サラリーマンもカップルもみんな前からすでにいた…?)
男は責められているような気がした。
「なんですか、見せもんじゃないんです。もう終わりました。終了です。おれも終わります。終わるんです。見たいならそこで野次馬しててください…」
そう言って男は海へと歩き出した。
「伝説があるんさ、この海に」
突然、おっちゃんがしゃべりだした。
男は海に膝まで入ったところで立ち止まった。
「もう、会えなくなってしまった人に、一度だけ会うことが出来るんさ、この海で」
男が、女が、みんながおっちゃんを見た。おっちゃんは海を見たまま続けた。
「この砂浜の波打ち際で、もう二度と会えんくなってしまった大切な人の名前を書くんさ。
波に消されても、ひたすら諦めずに書き続けるんさ。そうしたら
いつか必ずその人が、人魚の姿になって現れて、大切な言葉をくれる…」
言い終わると、棒を失ったおっちゃんは、寂しそうに立ちすくんでいた。
男は自分の海に浸かった足元を見ていた。
その時、カップルの女の方が海を指差して言った。
「あ…」
みんなが海をみた。
穏やかな海の遠くの方から何かが近づいてきた。人の顔だった。
はじめ頭だけが海面から出ていたが、だんだんと近づくにつれ、やがて腰のあたりまで
出てきて、止まった。
上半身が裸のおとこだった。
「人魚や」誰かが言った。
「ッツゥ〜…」
人魚は痛そうに頭を左手でおさえていた。右手には棒を持っていた。
おっちゃんが数歩、人魚に近づき、言った。
「ブンタ…ブンタか」
人魚は黙っておっちゃんと砂浜の人らを見た。みんなも人魚をみつめた。
「ブンタて、おっちゃんの、誰?」
女が人魚とおっちゃんを交互に見て言った。
おっちゃんは女の声が耳に入らない様子で人魚に話しかけた。
「ブンタ…えらいおっさんになって…。会いたかった」
人魚は黙っておっちゃんを見た。
砂浜の人らは、少しずつおっちゃんの背中へと近づいていた。
「ブンタ、すまんかったなあ、ダメな父ちゃんで…ほんまにすまんかった、許してくれるか…」
女も人魚に近づいた。
「ブンタ…さん、おっちゃんはあなたに会うために、ずっとここであなたの名前を書き続けてたんです。波に消されても消されても諦めずに…わたし、朝からずっと見てたんです」
女は泣いていた。
「俺も見てた。ブンタさん、この人になにか言葉を、なにか…」
サラリーマンが懇願するように言った。
「ブンタさん、なにかおっちゃんに」
カップルの男が言った。
みんなが続けた。
「ブンタさん!」「言葉を!」「なにか言葉を!」
老夫が言った。
「カモン!ブンちゃん!」
そして女が言った。
「ブンタ!なんか言え!」
一瞬の静寂が流れ、人魚はみんなを見ながら左手で自分の顔を撫でた。
みんな固唾をのんだ。
人魚は微笑み、そして言った。
「なぁ、しょっぱいなあ」
そして両手をピィーンと頭の上で合わせ、
「ほな!」
というと、ピョーンとしなるようなジャンプで海へ消えた。
波の音だけがしていた。
おっちゃんは人魚が消えた海を見ていたが、海水を両手ですくい、
バシャバシャと顔にかけた。やがて振り返りみんなを見渡し、少し微笑んで、去った。
老夫が独り言のように言った。
「…甘くもないが、苦くもない」
みんな黙っていたが、サラリーマンが海水に指をつけ、ペロッとなめて言った。
「うん、しょっぱい、な、確かにな」
「そうだな、しょっぱいよな」
みんなが口々に言った。
「帰るか」
老夫がそう言って、ポケットから石ゴロを取り出し足元に捨てた。
「帰ろう」
カップルの男が言った。
「うん、帰ろう」
カップルの女が答え、二人は石ゴロを捨てた。
「帰ろう」「帰ろう」
いくつかの石ゴロがぶつかって、ゴチッゴチッと音をたてた。
女も真っ白なコートのポケットから大きな石ゴロを取り出した。
「もういらないや、これ」
そうして、おもいっきり海へ投げた。
デボン、デボン、と二回重たい音をたてた。
女が男を見て言った。
「あんたはどうすんの?そのまま進んでもしょっぱいだけだよ」
男はしずかに泣いていた。
いつしか太陽が水平線の近くまで落ちていた。
「あんた彼氏は」男が小さく言った。
「いるか、そんなもん。…ああ〜しょっぱい、しょっぱい」
女は微笑み、去って行った。
男だけが残された砂浜には、場違いで大きなたくさんの石ゴロと、波だけがあった。
人間が落とした苦しみのかたまりが、夕日に染まった波にやさしく撫でられ、キラキラと光った。
デボン、デボン、とまた海が鳴った。
おわり