去年のクリスマス、喜多くんがあたしにくれたプレゼントは広辞苑だった。
広辞苑というのはあの広辞苑で、言葉がたくさん載ってる分厚い辞書のこと。その話を聞いた友だちはヤバイとかウケるとか口々に言ってお腹痛くなるまで笑って、なかには真剣な顔で別れた方がいいとか言ってくる子もいたりして、だからなんかそういうことなのかぁってあたしは思った。
広辞苑はメルカリで調べたら千円から二千円くらいで買えるっぽいけど、時々五千円とかするのもある。あたしには違いがわからない。もしかしたらレアな広辞苑とかあるのかもしれない。
念のためAmazonでいくらで売られてるのか見てみたら、だいたい一万円くらいだった。あたしが喜多くんにあげたDiorの香水が一万円とちょっとだったから、ちょうどいいくらいだと思う。
前にプレゼントの値段が違いすぎて怒られたことがあったから、プレゼントが必要なイベントのたびにひやひやしなきゃいけない。別に気持ちがこもってたらお金なんて関係ないと思うのにな。
喜多くんとあたしは大学のサークルで知り合った。いろんな大学の子が入ってる規模の大きい飲みサーだ。そうじゃなきゃ喜多くんみたいに頭のいい男の子と知り合うことなんてそうそうない。
喜多くん、背はおっきかったけど暗い感じで服とかもぜんぜんおしゃれじゃなくて、隅のほうで烏龍茶をずっと飲んでた(お酒飲めないって後で教えてもらった)
みんなバカみたいに騒ぐためか可愛い女の子やかっこいい男の子と知り合うために来てるのに、この人何しにきたんだろうって不思議に思って、トイレから戻って近く通ったタイミングで声をかけてみる。
「ね、どこの大学ですかぁ?」
ぎょっとした顔をした喜多くんは、ガヤガヤうるさいなかでもギリギリ聞こえるくらいの大きさの声でとても頭がいい大学の名前を言った。
「ええ~~!すごぉい」
お決まりのセリフを大げさに言ってみると、喜多くんはメガネを押し上げてそれほどでもって答える。こんなマンガみたいなことする人ほんとにいるんだなぁと、何故か感心してしまった。
「アニメとかそういうの好き?」
おしゃべりを続けたくて話をふると、喜多くんは急に不機嫌そうな顔に戻って別にと呟く。
「僕みたいな見た目の人間が必ずしもアニメが好きとは限りません。偏見ですよ」
「あ、ごめん。別にそういうつもりじゃなくて……スマホのケースにはさんでるステッカー、知ってるマンガのやつみたいだったから……」
あたしがおずおず指差すと、今度ははぱっと顔を輝かせる。思ったより表情がくるくる変わるひとみたい。
喜多くんはアニメはほとんど見ないけど、マンガは好きだと言った。あたしにはその違いがいまいちよくわからないけど、一緒にしてはいけないらしい。マンガとアニメは生の米と炊いた白米ほど違うって言われたところで、あたしにとっては両方ただのごはんだったとしても。
喜多くんのしゃべってることの半分くらいは意味がわからなかったけど、早口で難しい言葉を話してる喜多くんはなんだか楽しそうでいいなって思った。同じ大学の男の子たちみたいなノリでも街で声かけてくるような人みたいなチャラさもない、真面目でケンジツっぽい喜多くんが急にすごくいいものに思えてきた。
それから喜多くんが隣にいるにも構わず向こうで飲もうよってあたしを誘う男の子が何人かいたけど、あたしはそれを全部断って喜多くんと一緒にいた。これくらいしないと喜多くんには通じなさそうだったし、結局帰るタイミングで喜多くんは送っていくよってちゃんと言ってくれたから、やっぱり間違ってなかったんだと思う。
そのままあたしの部屋に泊まった喜多くんは、そのままあたしの彼氏になった。
付き合うことになってわりとすぐの頃に、喜多くんは僕たちはいつか別れるかもしれないけど、と大真面目な顔で言った。不吉なこと言わないでよって怒ってもちゃんと聞いて欲しいって絶対に譲らなくて、仕方ないからちゃんと聞くことにする。
「僕たちはいつか別れるかもしれないけど、できたら君には幸せになってほしい。僕がそのとき側にいなくても」
「どうして僕が幸せにするって言わないの?」
唇をとがらせると、喜多くんは真剣な調子で未来は不確定だからねって腕を組んで難しい顔をする。
あたしは喜多くんと一緒にいれて幸せだよぉ。喜多くんにぎゅっと抱きつくと、喜多くんも満更じゃない感じであたしを抱きしめ返してくれた。だからさっきのもマンガに出てくるセリフ真似してたのかなぁくらいに思って、さっさと忘れて喜多くんのあんまり上手じゃないキスに集中する。あたしにとっては「不確定な未来」よりずっと、今現在の喜多くんとのキスのほうが重要だった。
だけど喜多くんにとってはそうじゃなかった。
喜多くんは喜多くんの言うところの「不確定な未来の幸せ」のためにいつも一生懸命だった。そのせいで喜多くんはあたしのスケジュールを管理したがったし交遊関係を聞きたがったし飲み会に行くことを嫌がったしアルバイト先を勝手に調べたりもした。最初のうちはあたしも喜多くんを好きになっている途中だったからそういう独占欲みたいのも嬉しくて言うことを素直に聞けたけど、喜多くん好みの髪型や喜多くん好みのメイクと服装で全身かためたくらいのところではたと我に返ってしまった。
薄いペールピンクのセルフネイル。シャンパンピンクのシャドウはイヴ・サンローランだったけど、ブラウンのアイラインはドラストで買った千円くらいのヒロインメイクのもの。SHEINの服やアクセはどこかで見たことのあるようなデザインばかりで、miu miuのバックだけが本物のあたしの最後の欠片みたいだった。
鏡に写ってるあたしは、あたしなのにあたしじゃないみたいだった。
慌てて喜多くんが行くなっていった飲み会に顔を出してみた。それを知った喜多くんが、あたしを叱る。
「君はわかってないんだよ。頭が悪いから、悪いやつらと付き合ってることに気づけないんだ」
たしかに喜多くんからすれば、あたしは信じられないくらいのバカかもしれない。頭がいい喜多くんの言うことのほうが、バカなあたしの考えなんかよりずっと正しいのかもしれない。だけど。でも。
言い訳すると喜多くんはため息をつく。だけどもでもも使わないでくれないかな。そんなことを言われると、あたしは何も話せなくなっちゃうのに。
陽太はそんなときに出会った同じ大学の先輩で、柔らかい茶色い髪の毛がふわふわしてて、にこにこ笑うたびに白い歯がみえた。
前日、渋谷でモデル事務所にスカウトされたことで喜多くんと大喧嘩をしたところだった。陽太は落ち込んでるあたしに元気ないじゃんって軽率に声をかけてきて、あたしが喜多くんのことを話すと彼氏はお前のこと大好きなんだなぁってまた笑った。
「ぜんぜん好かれてないよ。あたしのこと信用できないからって束縛してくるし」
「こんな可愛い彼女だったらそりゃ心配にもなるって。オレが彼氏でもそうする」
陽太は当然って感じでそんなことを言うから、どっちの味方?って睨んでやった。ごめんごめんって口だけで謝った陽太に連れられて、陽太の仲間が集まるパーティーに顔を出す。陽太と同じようなタイプの男の子に「新しい彼女?」と聞かれると、陽太はあたしの腰を抱き寄せて「可愛いだろう」と無邪気に笑った。
困るよって言うとごめんって謝りながらキスをしてきた陽太と、その日のうちにやってしまった。
喜多くんと付き合ってるまま、陽太とも会うようになった。喜多くんが行くなっていうような、ギャラの出る飲み会に行っても陽太は怒らない。美味い酒飲めてお小遣いももらえるなんてラッキーじゃんって感じ。
陽太はあたしのこと彼女って聞かれても否定しないくせに、二人きりで会うような女の子が他に何人かいるから、あたしも気兼ねなくパパたちと会うことができる。喜多くんにダメだと叱られて切ったおじさんたちの何人かは、また連絡したら会ってくれるようになった。
おじさんたちからもらったお金で陽太が欲しがってたスマートウォッチを買ってプレゼントしたら、陽太はありがとうって喜んでくれた。喜多くんみたいにそんなプレゼントはいらないとか、高すぎるものをもらって困るなんて、陽太は言わない。
陽太といるのは楽だった。喜多くんといるときと違って、なんにも考えなくて大丈夫だから。
そうしているうち、あたしはだいぶ前みたいな生活に戻っていて、そうなると喜多くんに会うのがどんどん億劫になっちゃって、喜多くんから会いたいって連絡があっても体調悪いとか課題忙しいとか言って先延ばしにするようになった。喜多くんは断られるたび家にいる証拠の写真送ってとか課題どんなことやってるのかとか疑ってるみたいだけど、めんどうくさいときは無視しておいた。なんならこのまま自然消滅しちゃうのかもなって、テーブルの隅に置きっぱなしの広辞苑を見つめてあたしは思っていた。
だけど喜多くんは、あたしに会いにきた。約束もないのに部屋の前で待ってた喜多くんは、帰ってきたあたしに僕のこと避けてる?って訊く。あたしはちょっと迷ったけどうんって答えて、喜多くんを部屋にあげた。
散らかった部屋に立ち尽くした喜多くんがスカウトどうなった、と前置きなく言った。あたしはまた、うんって答える。
「うんじゃわかんないよ」
ため息まじりに吐き捨てた喜多くんが、どうせ騙されてるんだって決めつけるからあたしはだんだんイライラしちゃって、だから僕がいないとダメなんだよ、言うことちゃんと聞けよってお説教みたいにしゃべる喜多くんをぶった。
へにゃへにゃのこぶしが、喜多くんの二の腕に当たった。
喜多くんは痛いって大きな声を出したけど、そんなの知らないって思う。スカウトがちゃんとしたモデルのじゃなくAVのやつで、しかもナンパ百連発みたいな適当な使い捨てのやつでしかなくて、あたしなんて裸になってセックスの動画撮られたってたったの四万円しかもらえないみたいだった。なんだよそれ。バカだからって平気でみんなあたしのことバカにするけど、バカにされて平気なわけないじゃん。それくらい頭いいんだから喜多くんわかってよ。全部ちゃんとわかって、ちゃんと教えて、どうしたら幸せになれるのか広辞苑に載せといてよ。
喜多くんをグーで叩きながらあたしはめちゃくちゃをぶちまけた。自分でもなに言ってるのかわからなかったけど、止められなかった。
途中まで険しい顔をしてた喜多くんは、だんだん泣き笑いみたいな顔になっていて、黙って殴られながらあたしが落ち着くのを待っていた。
「別れる?」
最後にそう聞かれたから無言でうなずくと、喜多くんは何も言わずに帰っていった。喜多くんがいなくなった部屋は、ドアが閉まるととたんにしんと静かに冷たくなった。
喜多くんが言っていた不確定な未来は、こうして現実のものになった。本当に喜多くんはこれからもあたしの幸せを願ってくれるのだろうか。あたしはその夜、幸せの意味を広辞苑で調べてみる。
機会。天運。なりゆき。始末。
なんじゃそりゃって感じの意味の後にようやく幸福の文字をみつけた。なんてややこしい。あたしにとっての幸せは、ただ幸せってことでしかないのにな。
広辞苑はメルカリに出品すると千三百円で売れたから、陽太の誕プレ代の足しにしようと思う。