小説

『月夜の夢』水星浩司(『夢十夜』「第三夜」)

 

 

 これは夢だったのか。 
 私はベッドに体を横たえていた。ブルーの女性用の寝巻きを着ている。白い毛布が胸までかかっている。部屋の中は薄暗く、間接照明で白い天井や壁は薄いブルーに着色されていた。窓には白いカーテンがかけられている。窓の近くにはソファが置かれて、男が腕を組んで座っている。顔は俯いており、眠っているようだ。黒いタートルネックに茶色のジャケット、ジーンズを履いているが、顔つきは明らかに私である。男の寝息は聞こえず、部屋は早朝の湖面のように静まりかえっていた。時間も止まっているかのようだ。
 ノックとドアを開ける音が、静止した空間と時間にさざなみをたてる。ピンク色の制服を着た看護師が私のほうに歩いてくる。看護師は白い布に包まれた物を両手で抱いている。私の顔の左横に白い塊を降ろすと、「しばらくママのそばにいてね」と言って立ち去っていった。布の中には白い肌着を着た赤ん坊がいた。赤ら顔で目を閉じていて、すうすうと浅い呼吸をしている。生まれたばかりのようだった。
 私は男だから赤ん坊を出産できるはずがない。けれど私は女になったようで、この赤ん坊を産んだ母親なのだった。本来の私はソファで睡眠中だが、この赤ん坊の父親なのだろう。ベッドの上の私は、ソファの男の妻、つまり私の妻ということだ。
 赤ん坊の赤みがかった頬は桃のようだった。私は毛布から右腕を出して人差し指で頬を撫でてみる。乾燥しているのか湿っているのか、柔らかいのか硬いのかよくわからない感触だった。ただ不思議と自分の子なのに愛情は湧いてこない。洋服を買う時に興味のない商品を見ている時と同じような気持ちだ。何の感情の起伏も起こらない。
 視線を赤ん坊から離し天井を眺めていると、「怖くないかい。俺がそばにいて」と耳もとで男の声がする。かん高く不快感をもよおす声音だった。ソファの私を見たが、先ほどと同じ姿勢で眠ったままだ。赤ん坊を見ると、しっかり目を見開いている。口もとに薄ら笑いを浮かべながら、俺だよ、と続ける。ずいぶん大人びた顔つきで、父親の私に似ていなくもない。
 「俺を愛おしいと感じないだろう。当たり前だがね」と、赤ん坊は私の気持ちを見透かしたかのように平然と言う。私は戸惑いながらも赤ん坊の物言いや顔つきに辟易し、産むんじゃなかった、と思ってしまう。
 私はこの気味の悪い赤ん坊のそばにいることはできないと思い、新生児室に赤ん坊を戻してもらうためにナースコールのボタンを押す。しかし、看護師からの返事がない。何度押しても無駄だった。ソファで眠っている男に、声をかけて起きるように促しても反応がない。仕方なくベッドから降りて、赤ん坊を抱きあげると思いのほか軽かった。布の中に何もないような軽さだ。赤ん坊の顔を見ないようにして、急いで部屋から出るが、新生児室がどこかわからない。廊下の両側には出産後の入院部屋であろうか、白く無機質なデザインのドアがいくつも並んでいる。音は何も聞こえない。右に行けばいいのか左に行けばいいのか、立ち止まっていると、「赤ん坊の泣き声が聞こえないのかい。左に行けばいいのさ」と赤ん坊は言う。私は赤ん坊に指示された方向に早足で歩く。
 天井には円形の照明があり、白い光を投げかけているが、廊下はぼんやりと薄暗い。いくら歩いても一定の間隔で同じドアが続いているばかりで、新生児室にはたどりつけない。廊下の奥は暗くて見えなかった。赤ん坊の顔を覗くと目を閉じている。眠ったのだろうか。私は赤ん坊から目を上げ、前方を見る。突然の変わりように立ち止まる。私がいるのは病院の廊下ではなく、林の中の一本道だった。木々の枝や地面にはうっすらと雪が積もっている。道の右側には樹木の向こうに湖があった。夜で満月が中天に昇っている。月は普通よりもかなり大きく、石を投げれば皿のように砕け散りそうな近さに感じられた。街灯はなく、月の光が唯一の明かりである。私が着ているものはブルーの寝巻きではなく、タートルネックにジャケット、ジーンズに変わっている。どうやら元の私、ソファで眠っていた男に戻ったようだ。ただ相変わらず白い布の塊を抱いており、赤ん坊は目を開いて私を見ていた。
 「驚いたかい。ここがどこか知らないわけはないよね」と赤ん坊は言う。
 私は黙ったまま答えなかった。しかし、この道を歩いたことがあるような気がするが、いつ歩いたかは思い出せない。湖には満月が映っていた。しかも、小さな月がいくつも輝いている。私は夜空には一つしかない月を眺めながら歩き続けた。私の靴が雪を踏み締める音が規則正しく聞こえる。
 私に思い出す時間をこれ以上与えても無駄と思ったのか、赤ん坊は再び私に話しかける。
 「お父さん、ここで百年前に自分のやったことを忘れてしまったのかい」。思わせぶりで、人に不安を与える言い方だ。事実、私は不安感で胸が押しつぶされそうになった。
 「自分がやったことをそんなに思い出したくないのかい。やっぱりひどい男だな」と赤ん坊は吐き捨てるように言う。人を蔑む言い方を聞いていると、赤ん坊に対する嫌悪感が高まる。自分の足で歩くことも自分の手で物を持つこともできないくせに、言葉と声音と顔の表情で人を威圧し、人に何かを強いてくる。人間ではなく、タチの悪い妖怪だ。こんなヤツとはこれ以上一切関わりたくない。私は林道から外れて木々の間を走り抜ける。湖のほとりに着くと、すぐさま赤ん坊を湖に向かって力の限り放り投げた。白い布の塊は弧を描いてどぼんと音をたてて湖面に落ちた。白い布のまわりにゆっくりと波紋が広がっていく。赤ん坊の姿は見えず、白い布だけが月の光に照らされて漂流物のように浮かんでいる。赤ん坊は沈んだのだろうか。それとも布の下で呼吸ができずに窒息したのだろうか。
 「俺まで殺すのかい」と赤ん坊の皮肉まじりの笑いを含んだ声がする。いつの間にか私は林道に戻っており、しかも赤ん坊を抱えている。赤ん坊は私を睨むように見つめて言う。
 「都合の悪いことは記憶から消したいわけか。だがね、そんなことはできないんだ。俺が教えてやるよ。百年前にあんたは自分の父親を殺したんだ。もうすぐその場所さ」
 私はこの言葉を聞いて、妙に思えるかもしれないが、冷静になり、赤ん坊が言うとおり確かに父親を殺したのだと思い始めている自分に気づく。しかし、何が理由で殺すほど父親を憎んだのかはわからない。
 道の前方左側に他より太い幹の樹木が立っていた。黒い影のような色の根元のあたりに何かがある。近づいてよく見ると、人が横たわっている。衣服は雪にところどころ埋もれ隠れているが、顔だけは露わだ。時間をかけて確かめてみるまでもなく、一目で私であることがわかる。私とそっくりだが、私の父親なのだと確信する。顔は月光に晒されて青白く、目を閉じている。蝋人形のようで、死んでいることに間違いない。死体の胸のあたりの雪が真っ赤に染まっている。私は急に怖くなって、赤ん坊を投げ捨て、そこから逃げるように走り出す。
 林道はカーブすることなく、どこまでもまっすぐに延びていた。何も考えることなく必死に走り続ける。私が吸っては吐く息の音だけが聞こえる。息が切れ、立ち止まって後ろを振り返ると、闇の奥から何かが私のほうへ迫ってくる。黒い人影だとわかる。顔は見えないが、おそらく赤ん坊だろう。体の大きさや走る姿は大人だが、私は赤ん坊と思わずにいられなかった。追いつかれたら、もう取り返しはつかない。私は再び走り出そうとする。しかし、膝に力が入らず、足がもつれてしまう。速度は歩くのとさして変わらない。これではすぐに追いつかれるだろうと思った瞬間、背中から抱きつかれた。赤ん坊はずっしりと重くなっている。立っているのがやっとなほどだ。赤ん坊は私の耳もとでささやく。
 「もう一つ、教えてやるよ。百年後にあんたは自分の息子に殺される」
 私はもう立ってはいられず、その場に崩れ落ちる。この赤ん坊が大人になって私を殺すのか。私は赤ん坊を湖に投げ捨てたのだから、赤ん坊から恨まれて当然のように思えた。仰向けに倒れた私の目には銀色に輝く満月が映っていた。月の形がゆがんで見えはじめた。湖面に映った月がさざなみでゆらゆらと揺れるように。私の目から涙が溢れていた。私はゆっくりと目を閉じた。


(了)