小説

『退任式』高乃冬(『こころ』)

 

 

 雪が、ちらついている。

「ねえ先生。僕って、認めてもらう立場、なのかな」

 窓の外を見ていた先生は、微笑しながら僕の向かいのソファに座る。ソファはテーブルをはさんで置かれ、一人で座るには大きい。

「今日も突然ですね。またテレビですか」

 膝下までしかないテーブルには、マグカップが2つ。

「多様性を認めようって言葉。自分が誰かを認める立場だと思ってる人にしか出てこない言葉だよね」

 冷めはじめたマグカップを両手で取り、ココアを胃に落とす。

 深く沈みこむソファと甘ったるいココアが融合すれば、簡単にこの空間に閉じ込められてしまう。僕と先生しか居ないこの相談室。

 心地いい。何も考えなくていいから。

「そうかもしれませんね」

 先生は背筋を伸ばして座っている。きっと今日もカップの中身は、ミルクを垂らしたコーヒーだろう。

「同性愛の人を取り上げるメディアが増えて、なんか、怖い。新聞とかニュースとか、ドラマや映画も。そういうの見ると、怖い」

「自分にスポットライトがあたっている感じですか」

 うなずいて見せる。

「今までは、ただ黙ってればよかった。好きな女子はいるのかとか、どんな女が好きかとか聞かれても、わかんないって言ってればよかったけど」

 コーヒーも、ミルクを垂らせば見た目はココアと変わらないのに、どうして全く味が違うのだろう。

「なんか、無理やり自分の部屋に入られた、みたいな」

 一点を見つめて独り言のように話すのは、やっぱり自分の癖だと思う。

「同性愛を公表する有名人とかいるでしょ?あと、自分が同性愛者で同性愛の存在を広める活動してる人とか」

「いますね。最近は特に」

 先生の手にマグカップは無い。肘を膝に置いて、いつもの前傾姿勢だ。僕の話をちゃんと聞いてくれているのだと実感する。それも、視界の端にしか捉えられないけど。

「それもほんとは怖い。自分たちは行動した。はい、次はお前の番って言われてるみたい」

 暖房の音が止まる。設定温度まで温まったのだろう。

「君らしい感受の仕方ですね。私は好きですよ」

 好き。その言葉にいつもどきっとする。そのたびに自分が面倒臭くなる。

 でもきっと違う。この驚きは、他のと違う。

 先生の「好き」は、僕にとって特別だ。

「分かります。私が学生の頃は、今ほどの動きは無かったですからね。私もね、今まで20年ほど腹の内にしまっていたものを、無許可でお腹切り裂かれて解剖されているようです」

 マグカップを手に窓際に戻る先生は、今日の雪が気になるようだ。

「雪、少しつよくなりましたね」

 紺色のスーツはこの人のためのものだと思えるくらい、相変わらずよく似合っている。重ための髪とすらっと伸びた背。あれが色気なのだろうか。

 「見てください。綺麗ですよ」

 雪はほんの少しの風でも飛ばされてしまう。右へ左へ揺らされて、気体の粒子の動きみたいに空気中を駆け回る。

 重力がないみたいに。

 自分だけ重力が働いてないみたいだった。

 いつまでたっても好きな女の子はできなかった。高校2年の今までに、女子に対する感情が沸騰してどうしようもなくなる、なんてこと一度も無かった。

 中学の時、体育の前の更衣の時間。

 自分がいけない事をしていると思った。居てはいけない部屋に居て、見てはいけないものを見ていると思った。

 でも、もっと見たいと思った。

 その日から重力がなくなった。風船みたいにふわふわ飛んでいく感覚。その場にとどまることができなくて、その辺の木や建物に必死にしがみついている感覚。

 けれどクラスメイトと話している時だけは、自分にも重力が働いた。みんなの輪の中にいて、僕もみんなと同じだよって顔をしていれば、その場に立っていられた。

 だからもう。

 もう、それでよかった。

 みんなの輪の中にいる時間に比例して、どんどんどんどん無重力化は進んでいったけれど、それでよかった。

 風が止んで、雪は落ち着きを取り戻すと、すっと真下に落ちていく。

 あの雪にも、重力がある。どれだけ風に揺られて舞い上がっても、いつかは地面に着地する。

 また、自分と違うものを見つけた。

 マグカップを持つ先生の左手の薬指には、銀色が一周している。

「先生の結婚も、いつか認められるのかな?」

「どうでしょうかね。認められても、私が老人になったときだと思いますが」

 先生の表情は見えない。


 4月。この相談室を偶然通りがかった。

「スクールカウンセラー 中に居ます!」という文字の隣に小さく「ノックしてね!」と書いてあるサインプレートが目に入った。

 中に何かがある。

 そう感じて、ノックしたのを覚えている。

 初めて先生を見た時、「同じだ」と思った。

 何が自分にそう思わせたのか判然としないまま、出されたココアを飲んでいた。

 言葉が自分の中から出てくる事が、話題の事だけを考えればいいという事が、こんなに楽で楽しい事だと知らなかった。

 指輪をしていると気づいて、裏切られたような喪失感があった。

「ゆびわ…」

 思わず声がもれた。

「ああ、はい指輪。婚約しているので」

 けれど、と先生は続けた。

「籍は入れていません、認められていないので。事実婚というやつですね」

「はあ。親族に反対されたとかですか」

 さっさとココアを飲み切ろうと思い、カップを傾けた。

「いえ、法律に認めてもらえなかったんです。同性同士の結婚は日本では認められていませんから」

 西日に照らされて、先生の表情を完全に知ることはできなかったが、多分、何一つ変わっていなかったと思う。


「本当に、来週で最後なの?」

「本当に来週で最後ですね」

 入口に置かれた段ボールには、先生の荷物が入っている。

「結局この学校では、君しか来てくれませんでした」

「確かに。いつ来ても先生しか居なかった」

「ほかの学校では、もっと忙しくしているんですよ。本当ですよ」

 わざとらしく熱くなる先生に、僕の頬は上がる。

「でも、良い事だと思います。相談の必要がないならそれが最善です」

 もう少しこっちを向いてほしい。見たい時に、いつも表情が見えない。

 こっちを向いた時には、いつもの微笑に戻っているのだ。

「もう一杯、飲みますか?」

「飲みます。そういえばお菓子持ってきました」

 先生は来週の来校で最後になる。

 それは、会えるのも最後になる、ということなのだろうか。


 この地方にしては珍しく、1週間絶えず雪が降り続けた。

 放課後。コンビニ袋をさげて、相談室の扉をノックした。先週よりも物が少なくなっていて、なんだか寒々しい。

「来ましたね」

「はい。来ました」

 いつも通り挨拶を済ませると、コンビニ袋から中身を取り出してテーブルに置いた。

「先生。今日は退任式だよ」

「退任式?」

 片づけをしていた先生が体をこちらに向けると、ぱっと表情が明るくなった。

「おお。ケーキですね」

「うん、買ってきた。コンビニだけど」

 二切れ一セットのケーキが、ドーム型のプラスチック容器に入れられている。お互いの隙間を埋め合うようにして、綺麗な四角形を形作っている。

 けれど、とても窮屈そう。

「なんか、閉じ込められているみたい」

 言った瞬間、焦りという感情に後ろから勢いよく抱きつかれたようだった。取り消したい。聞こえてませんようにと思いながら、いつも通りふるまう。

 先生は僕の方を見て静止している。

「ココアでいいですか?」

 いつもより低い声の問いかけに、頷いて答えた。

 目の前にマグカップが差し出される。先生も手にマグカップを持っていて、そのまま向かいのソファに座った。

 先生は窓の外を見ている。数分おきに、マグカップを口元に運んでいる。

 その姿を見たいのに、見れない。

「君を初めて見た時ね、」

 一口飲んで、先生は言った。

「同じだ、って思ったんです」

 僕が顔を上げると、先生は既に僕を見ていた。

「学生の頃の僕と同じだったんです」

「先生、好きです」

 話をさえぎって出てしまった言葉は、訳の分からないものだった。

 けれど、きっとそれが本当で、自分の中にある全部だと、僕は思った。

「先生にもう会えないのはいやです。いやです。会えないのはいやです」

 自分の中にある全部は、きっと訳の分からないものなんだ。

「二度と、自分と同じ人に会えないのは、いやです」

 視界にあるものが、形を無くして混ざり合っていく。

 先生は僕の隣に移り、距離を近づけてくれる。

 指輪の輝きが痛い。そんなのつけないでほしい。

「僕と一緒にいてよ。先生」

「同じ目、だったんです」

 僕は黙るしかできない。

「きっと簡単に会えます。君と私がこの学校で、なんの前兆もなく簡単に出会ったように、きっと簡単に会えますよ」

 泣いてもいないのに、僕の背中をさする先生。

「だからね、だから」

 その手はブレザーの上からでも、はっきり温かい。

「そんな諦めたような目をしないでください」

 諦める。僕が何を諦めているというのだろう。

「同じだったんです。学生の時、私もそんな目をしていました」

 ゆっくりと、部屋が明るくなっていく。雲の隙間から太陽が出てきているのだろう。

「初めて人に、パートナーが男性だと打ち明けました。とても怖かった。二度と経験したくありません」

 先生は苦笑して、視線を下に落として、また上がった。

「君だから言えたんです」

 何も言えない。言葉が出てこない。

「本当はね、私、結婚なんて、認められても認められなくても、どっちでもいいと思っています。認められていないからこそ、私と旦那の結束は、より強固に、なっているとも思えるんです」

 先生の視線は上下して定まらない。いつもの、目を見て話す先生じゃない。

 そうか。先生もきっと、言葉が出てこないんだ。けれど必死に伝えようとしてくれているのだ。

「私も、君が好きです」

 やっぱり先生は特別だ。

「けれど、君の『好き』と私の『好き」は違います」

 そういってくれる先生が、すきだ。

「君は、閉じ込められてなんかいません」

 僕の様子をうかがいながら、肩に置いた手をゆっくり離す先生。

 マグカップからは湯気が見えなくなっていた。

 僕は顔を上げて、窓の外を見る。雪が降っている。風に吹かれて、無邪気に空を飛びまわっている。

 止むことなく、これからも長い間、ずっと、振り続けるかもしれない。

 けれど。

「雪、きれいですね」

 太陽に照らされて、きらきらと発光する雪は、きれいだと、心の底から思えた。

「退任式。始めましょうよ。二人だけど」

 僕はそういって、皿とフォークを準備した。先生も僕に続いて、冷えた二つのマグカップを持って、レンジに向かった。

「実は退任式、憧れだったんですよ。スクールカウンセラーは呼ばれないのでね」

 確かにと言って、僕たちは笑いあう。

 ケーキとココア、ケーキとコーヒーが並び、準備が整うと、僕はいつもより少し大きな声で言った。

「生徒代表挨拶」

 立ちあがり、目を見て、笑顔で。

「一年間、ありがとうございました」


                                                            了