小説

『幸の枝先』和織(『あじゃり』)

 

 

 風都という少年は、母親に対してとても大きな愛情を持っていた。彼はもうすぐ十歳になろうとしていたが、外出してもぴったりと母に寄り添い、母が重い荷物を持っていればすぐに代わってやろうとするし、風邪でもひいた日には、「お母さんが心配だから学校を休む」と言ったりした。彼の両親はそれを少し心配していたが、かといって、子供同士で遊べない訳でもないし、特におかしな言動があったり、困ったことがある訳でもなかった。

 風都にとってはそれはとても自然で当たり前のことだったので、「お母さんは大人なんだからそんなに心配しないで」なんて言われても、とても納得できなかった。ただただ母がとても大切で、いつも心配でしょうがない。それが、彼の普通だったのだ。だから自分の十歳の誕生日に、母がとても張り切っていろいろ準備をしてくれることに対しても、そこまでしてくれなくてもいいのに、という気持ちの方が大きかった。しかし母が一生懸命だったので、彼女を喜ばせる為に、わざと大げさにはしゃいでみせた。

 その日の夜、風都は夢を見た。薄暗い部屋で、彼は一人、ベッドの前に座って俯いていた。ベッドの上にいた人間はとっくにいなくなっているのに、その後もずっと、長いことそうしていた。誰が来て何を言われても、言葉は彼に届く前に消えてしまった。そのうち誰も訪ねて来なくなり。やがて彼は、自分がもう死んでいることを認識した。それでも、そこから動くことが出来なかった。彼は、どこへも行きたくなかった。あの子がいたこの場所に、独りでずっと留まっていたかった。それなのにまた、性懲りもなく誰かが部屋を訪ねてきた。

「やはり、まだここにいらっしゃったのですね。先生、私です、山本です。おわかりになりますか?」

 その音は、彼にとってなんの意味も持たなかった。

「先生、やはり日葵ちゃんは、もういないのですね。先生、お一人なのですね」

 無関心だった彼は急に、その山本という、学生服の青年を睨んだ。「日葵」という名前、それを、彼は他の人間に口にしてほしくなかったのだ。

「先生がまだ小さな日葵ちゃんを連れて来られた日のことを、よく覚えています」山本は、落ち着いた様子で続けた。「「日葵は兄の奥さんに似ているから、俺には似ていないだろう?」と仰っていましたが、私には、目元が少し、先生に似ているように見えました。日葵ちゃんが事故でご両親を亡くされたのは大変な不幸でしたが、先生という父親に迎えられ、十歳まで一緒に過ごされたことは、日葵ちゃんにとって大きな幸福であったと、私は思います。もちろん日葵ちゃんの病気が、先生にとって耐えがたい不幸となったことは承知しています。しかし先生は、「日葵を必ず幸せにする」と、亡くなったお兄様ご夫婦に立てた誓いを、ちゃんと果たされました。時間は短かったですが、最期まで先生という人に、やさしいお父さんに傍にいてもらえたことで、日葵ちゃんはきっと幸せだったでしょう。ここに日葵ちゃんが留まらなかったのが、その証拠です」

 山本は慈しむような視線をベッドへ向けた。山本の言葉が自分に触れ、彼は子供のようにおどおどする。

「先生が一人で苦しまれることを、誰も望んではおりませんでした。それを、きちんとお伝えしたかった。お世話になったご恩を、何もお返し出来ずに、申し訳ありません。私は、先生と一緒に酒が飲みたかったです。実は、初任給をいただいたら、親ではなく初めに、先生にご馳走させていただきたいと思っておりました。もう何も叶いませんが、せめて、お見送りをさせてください。先生、もうご自身のことだけでいいのです。日葵ちゃんも、先生に、お父さんに幸せでいてほしかったのです。その想いを、叶えてあげてください。今度こそ二人で一緒に幸せになれるよう、先に行って、どこかでまた先生と会えるのを、日葵ちゃんも楽しみにしている筈です」

 彼は少しづつ、山本の言葉を、かつての教え子のその想いを、受け入れた。それでようやく、昔のように笑うことができた。

 目が覚めたとき、「ああ、俺はあの子を随分先へ行かせてしまっていたのだな」、と風都は思った。と同時に、そのことを忘れ、失った執着から解き放たれた。