小説

『ゲーム』森行クライ(『少女パレアナ』)

 

 

 ・・・・・・が亡くなったって、というリョウの声が、今年は暖冬となるでしょう、というテレビの天気予報の声に交じった。

「え?何て言った?」

「物理のクマセンが亡くなったって。高校の時のグループラインで連絡きたよ」

 朝食の後片付けをしている手を止め、当時の担任教師の顔を思い出そうとしたが、眼鏡の奥のまん丸した目と黒々した手の甲の毛しか脳裏に浮かばない。

 出勤の支度をしているリョウが、スマホの画面をタップした。

「今、告別式の時間と場所をラインに送っといたから。フジミヤの気が向いたら行ったら」

「ありがと。後で見るよ」

 リョウを玄関先まで送った後、スマホでラインとスケジュールの確認をした。告別式の日には予定は特にない。記憶に薄い担任とはいえ、焼香に行く方がいいものかを考えてみた。けれども頭の中では、担任の顔ではなくて同級生の顔がよみがえってくる。すこやかで明度の高い、あの子の顔を。


 10年前、私は嫌な女子高校生だった。大抵は、教室の自分の席で本を読み、同級生とは交わらず、教師に対しても不愛想な態度をとっていた。在学中の友人はリョウだけだった。

 あの子は、全然私と違っていた。いつも笑顔で、同級生や教師に親切で、クラス委員や掃除など面倒な事を進んでやっていた。あの子の周りにはいつも人がいて、明るい空気が満ちていた。

 その日の放課後、私はいつものように学校の図書室で本を読んでいた。細く開いた窓から入る風が、部活の練習をしているかけ声や生徒の嬌声を近く、もしくは遠くから運ぶ。

「フジミヤさん。ね、フジミヤさん」

呼ぶ声の先、視線を左に向けると、あの子がいた。胸の前にヤングアダルトの恋愛小説を数冊抱え、瞳をキラキラ輝かせながら、まっすぐ立っている。

「フジミヤさんって、ここでも、本を読んでいるのね。教室でもいつも読んでいるし、本当に本が好きなのね」

「ここでも、って、図書室で本を読むのは当たり前でしょ」

眉をしかめて、一度あの子に向けた顔を、開いた本のページに戻す。頭上の方から、あの子の弾んだ声がした。

「本当にそうねぇ。私、二年生のクラス替えで同じクラスになった時から、フジミヤさんと話したかったから、ここで会えて嬉しいわ」

 あの子は……友だちの相談や愚痴を聞いているとき、電車の遅滞で自分が遅刻したとき、体育で突き指をしたとき、どんな時も、理由をつけて前向きな言葉を連呼する。この能天気な思考が、私を苛立たせる。

 本を閉じて、私の椅子の脇に立っているあの子を睨みつけた。

「アイザワさんって、嬉しい、ってよく言うけど、どうして?」

「これはゲームなの」

 えくぼを浮かべたあの子が、胸の前で抱えた本を机に置き、私の横の椅子に腰を下ろした。

「『何でも喜ぶ』ゲーム。物事の中から何か喜ぶことを探すのよ。例えば、ケイコの代わりに図書館に本を返しに来たら、フジミヤさんと会った。ほら、良い事があった、っという訳」

 馬鹿馬鹿しさに腹が立ったが、意地悪な気持ちがわいてきた。

「それじゃ、私にも何か喜ぶことがあるってこと?」

「勿論よ。私と一緒にゲームをしてみる?」

「じゃあ、私の事を話すから、その中から喜べることを、アイザワさんが見つけてくれる?」

 明るかった表情が曇り、あの子はためらいがちに口を開いた。

「本当は自分の喜びは自分で探したほうがいいのだけど」

「初心者の私の代わりにやってみてよ」

 尻を浮かせて椅子を斜めに動かし、隣のあの子に真正面から向かい合った。

「私は、秘密がある。それは、私をずっと苦しめていた」

 何故自分の胸の内を話そうとするの、と逡巡したまま、私は続けた。

「この秘密を理解して欲しくて、正しいと言って欲しくて、両親に打ち明けた。会社の経営をしている両親は、人格者としても世間で有名で、私の誇りだった。でも、両親とも、初めは私を否定、次に諫めて、それから私を嫌悪した。かろうじて今は養ってもらっているけど、もう元のような家族には戻れない」

 うつむいていたあの子はしばらく無言でいたが、ゆっくり顔を上げた。

「ご両親に話して良かった、と私は思う」

「どうして、そんなこと言えるの」

「だって、秘密は秘密ではなくなり、フジミヤさんがフジミヤさんとして享受しうる真実に変わったでしょ。ご両親との亀裂は悲しいよね。でも、フジミヤさんはフジミヤさんでいいのよ」

 その柔らかな口調に、私は酷く動揺し、さらに腹が立った。つま先で床を蹴って立ち上がり、机の上の本を鞄に入れ、足早で図書室の出口に向かって歩き出した。私の耳に、あの子の言葉が追ってくる。

「フジミヤさん、私に大切な話を聞かせてくれてありがとう。嬉しいわ」

 振り返ると、あの子は微笑んでいる。踵を返してあの子に駆け寄り、いきなり唇にキスをした。その柔らかな唇は湿っていて、一瞬、ハチミツの甘い匂いがした。唇を離し、鼻先にある大きく見開いた茶色の瞳をにらみつける。

「これが私の秘密。女の子しか好きになれないの。アイザワさんはこんなことされても、嬉しいって言える?」

 言い放ち、私は引き戸を乱暴に開けて、図書室から飛び出た。そのまま、廊下を全力で走り、何人かの生徒にぶつかりそうになったが、私は止まらなかった。太ももを上げて走ると制服のスカートがまとわりついて邪魔だ、と思った。


 それから、あの子に会っていない。

 情けない話、その後すぐに、高校を中退したのだ。数カ月学校を休んで両親を怒らせて家を出て、独り暮らしのリョウの家に転がり込んだ。現在は、高卒の資格を取得し、厚労省の就職支援制度を利用して、本格的な就活を始めている。その間のうちに、リョウとの関係は恋人にと変わった。


 告別式の後、私は式場に隣接しているカフェで、高校の時のクラスメートのタケダ ケイコの甲高い声を聞いていた。

「ほんっとぉに、久しぶりだわ。フジミヤさんに会えるとは、思わなかった」

 教師の家族にお悔やみの挨拶を終えた後、会場から出ようとした私に声をかけたタケダの誘いに乗ったのは、ひとえにあの子の友人だからだ。

 とりとめない長話をうなずきながら聞き、ケーキがあらかた無くなったころ、私はさりげない調子で話を切り出した。

「そういえば、告別式にアイザワさんは来たのかしら?」

タケダは紅茶のカップをソーサーに置き、小首を傾げて答える。

「仕事が忙しくて来られないじゃないかな」

「どんな仕事なの」

「驚くわよ。意外過ぎて」

少し身を乗り出して、タケダは鼻を鳴らす。

「刑務官よ」

「刑務所で働く仕事の?」

 私の驚いている様子を見て、タケダの両口角は上向きにひろがる。

「そうよぉ。高校時代のアイちゃんしか知らないと、想像つかないでしょ。でも、私はアイちゃんの秘密を知っているの」

上がった口角のまま、タケダは机の向こう側の私の方へ、さらに上半身を傾ける。

「実は、アイちゃんのお父さんって、殺人犯なのよ」

 思わず息をのみ、自分のその反応に心中舌打ちをした。タケダの唇はぱくぱくと動き続ける。

「それも、女子高生殺し。私たちが高校生の頃は、もう刑務所に入っていたそうよ。でも、お父さんが捕まって、懲役18年と刑が確定したら、それが軽すぎるっていう世間の非難がすごかったみたい」

「どうして」

タケダの言葉を遮り、テーブルの下に隠した両拳を握り締めた。

「どうして、それを知っているの。アイザワさんがタケダさんに話したの?」

「ううん、違う。アイちゃんの暗証ナンバーを盗み見して、スマホの中身をこっそり見たの。その中の写真を見て、このおじさんの顔が見た事あるな、と思って調べたのよ。名探偵しちゃった」

鼻の穴を膨らませて、タケダは得意げに続けた。

「あの子、いつも「嬉しい」とか言ってうざかったでしょ。だから、何か秘密ないかなと思って」

 テーブルの上のコップを取り、私はピエロのような笑顔に向かって中の水をかけた。タケダの悲鳴が店内に響く。

「きゃあっ!何するのよっ」

 啖呵を切ろうとしたせつな、タケダのすぐ後ろの観葉植物の影に、いつのまにかあの子が佇んでいた。私とあの子の視線が交差すると、あの子はタケダの背後に歩み寄り、その肩に手を置いた。

「ケ、イ、コ」

「え!アイちゃん、来てたの?」

 振り向いたタケダの顔色が変わる。そうよ、と返答して、あの子はタケダがコートをかけている席を見ながら、明るく声をかけた。

「お焼香が終わって帰ろうとしたら、窓から二人が見えたの。私も同席していい?」

 用事を思い出した、という事をもぞもぞ言いながら、ひきつった顔のタケダは逃げるかのように、店から出て行った。

 タケダがいなくなった席にあの子は座り、おしぼりでテーブルに零れた水たまりをさっさと拭く。ウェイトレスにタケダの皿とカップの片づけを頼み、コーヒーを注文してから、あの子は改めて挨拶をしてきた。

「フジミヤさん、久しぶり。会えて嬉しいわ」

 10年ぶりの彼女は、高校生の頃の花のように可憐だった姿形とは変わっていたが、その笑顔は変わらなかった。

「フジミヤさんとずっと話したかったの。あの図書室でのことを」

「あ……、あのこと」

 気まずさのあまり、私はほとんど飲み終わったコーヒーのカップに唇をつけて俯いた。そして、そのままあの子の柔らかな声に耳をすました。

「私、最初はびっくりしたわ。突然だったしね。でも、ちょっと恥ずかしかったけど、嫌じゃなかったのよ。実は、私が当時読んでいた本とフジミヤさんが読んでいた本が同じ本が多くて、気が合いそうだな、友達になりたい、って心から思っていたの。だから、アレされて、フジミヤさんの心に触れられた気がして嬉しかった」

 はあぁぁ、と変なうめき声が出た。高校生の時に読んでいた本なんて、ロバート・K・レスラーに越智啓太、スティーブン・キングの小説とかだ。

 眉を寄せている私に、あの子はテーブルに両肘をついて腕を組み、その組んだ両手の上に顎をのせた。

「私ばかりしゃべっているよね。フジミヤさんは私に聞きたいことある?何でも話すわよ」

「何でも?」

「ええ、何でも」

 瞬きもせずに、あの子の目が私の目を見つめる。私も背筋を伸ばし、しっかりと見つめ返した。

「どうして、『何でも喜ぶ』ゲームを始めたの?」

 あの子は瞼を閉じ、肩で大きく息を吐き、それから瞼を開けた。

「聞きたいのは、それなの」

 そう、と短く答えると、父のことじゃないのね、というかすれ声がポロリと零れた。私は聞こえないふりをした。

「このゲームを始めたのは、私の戦い」

 あの子の低い声が、店内に流れる軽妙なボサノバの曲に混ざる。

「あの時、私に許されたのは悲しむこと、謝罪すること、諦めること。でも、ある時、ふと思った。私には笑うことは許されないの、って。私は私。私は父の犠牲者にならない。私の人生には必ず何か楽しい事があるはずだ、嬉しいと思えることを見つけられるはずだ、って」

 ぎらぎら光る茶色の瞳は野生の獣のようだ。これがあの子の持つ顔の一面か。

「強いのね」

「父への復讐心があるだけ」

 さらりと一言。会話が途切れた時に、ちょうどウェイトレスがコーヒーを運んできた。あの子はコーヒーを一口飲み、目を細めて、美味しいね、と言った。

「そういえば、フジミヤさんは今、何をしているの?」

もうひと口、コーヒーを飲んだ後、あの子は私に聞いてきた。

「学校やめた後、高校時代の人は誰も知らないって言ってて」

「色々あったけど、今は正社員目指してプログラミングの勉強しながら、アルバイトしている」

「いいねぇ。どんな会社ねらっているの?」

 まるで、長く会わなかった友人と再会した時のような会話が続く。人と話すことが苦手だった自分が嘘のように、次から次へと言葉が出てくる。お互いに色々な話題をふっては話し続け、顎が疲れてきて、飲み物のおかわりが三杯目になったころ、私は自分の恋人の話をした。

「そういう訳で、高校生の時の隣のクラスのカムラ リョウコと、パートナーになったの」

「え~、ズルイ!私にはまだ恋人がいないのに」

「そこは、『フジミヤが幸せで嬉しい』、でしょ」

 悔しがるあの子に言い返したけど、本当に言いかったのは『アイザワと出会えて嬉しい』だった。今度会った時には伝えよう、いや、まだ早いかな。私たちのゲームは続いていくから。