小説

『母 2024』和毛知恵(『母』)

 

 

 沈黙に、途方も無く鈍い苛立ちが隠れている。

殺風景な日常では、冷たい風が無数の凍った針達になり、体を刺す。

汚れたアスファルトと民家の境界で、プラスチックの鉢植えに植えられた花が「ここから」と、疲れ気味に微笑している。

もし明日の朝、この鉢植えの花が無くなっても誰も文句を言うことはない。

毎年この時期になると、花泥棒がご近所中にやってくることを誰もがわかっている。それでも毎年、境界に花は置かれる。


 小東家の一人息子のスバルは、人工知能を玩具にし、毎日のように新しい機能を発見して育った。小学校ではデジタルリテラシーと性教育の授業が増やされ、必須科目だった授業は選択可能科目へと移行していた。

 そのころの電車内の吊り広告では、お手軽美容整形が不気味に先鋭感を漂わせ、母はなんとなく目を背けた。ちょうどその横にあった子供プログラミング教室の広告を見て、スバルの将来を想像し、静かに想像上の安堵に満たされた。

「こういう金のかかる教育は、ちゃんと親孝行の還元率も記載してくれなきゃなぁ・・・。」

 平均よりずっと声量のある夫が言うと、デリカシーのない発言に聞こえた。

「・・・そうかもね。」

なんとなく同意できず否定もできない久美子は、それ以上会話も考え事も続かないよう、いつも通り務めた。


 所得制限のおかげで入学できた大学では、スバルは友達も増え、いや、どこからどこが「本当の友達」なのかは母には分からないほど、大人数での交流があり、よく薄いドアで仕切られた部屋から、オンライン授業やゼミの会話が聞こえた。

授業の内容は、環境問題、世界平和、男女同権等・・・

(よくこんなご立派なこと、皆発言できるね・・・こんな啓発の世界で成長した息子は、海外で人助けをしたいなんて言い出すかもね・・・)

話についていけない自分をなんとなく後ろめたく感じながら、母はよく会話を聞いていた。

ゼミでは聞き慣れない単語が頻繁に飛び交っていた。NFT、OpenAI、NISA・・・母にははじめ聞き取れなかったが、ネットニュースで飛ばし読みしている「よく分からない誰かのもの」について、スバルが会話しているのだと思った。

スバルにそれについて尋ねたところ、おすすめのyoutubeとやらを紹介してくれたので、見てみたら、なんとなく鼻につく喋り方の男が、詭弁を並べている様な動画だと思った。

「よく分からない誰かのものの中の、何かのカテゴリにあたるもの」という具合で理解は終わり、それよりも、こんな動画を2倍速で見ている息子は、少しでも知能指数が高いじゃないか?ということが気になりだし、過去の行動を思い出しながら、それについて検索を始めた。

しばらくは「簡単診断」や「すぐ終わるチェックリスト」探しに時間を費やし、そのあとで出くわす小難しい単語の検索に時間を費やし、そのうち、2〜3回のクリックで、求めているwebサイトにたどりつけないことに苛立ち、結局、息子の考えていることに、思ったより近づけなかった。


スバルは大学を卒業すると、スタートアップのコンサルティングなんとかとかいう会社に就職し、帰って来る時間が遅くなった。そもそもコンサルティングなんてまだ若い人にできるんだろうか?と疑問を抱いていたが、スバル曰く、学生時代のインターンや経験、そして今は若者の意見が大切にされる時代だから問題ない。とのこと。久美子は、最近のニュースでデジタル通貨の会社役員が逮捕されたとか、コンサルティング会社が合併吸収されたとか、やる気を搾取された真面目な若者が過労死した等を見聞きしていたため、真面目なスバルは働きすぎるんじゃないかとか、悪い金の取引に知らず知らずのうちに関わるんじゃないかとか、《得体の知れない役割》が息子に与えられたことに、心配していた。

 スバルが体調を崩さない様、身の回りの世話をしてやれたので、一人暮らしをしたがらないことについて疑問は持っていなかった。給料の半分を家に入れ、あとはほとんど貯金してしまう息子を自慢に思っていた。


 ある日、ネットニュースで、「母親の取り扱い説明書」という記事が、高所得者層が読むと思われる媒体で取り上げられていて、「実家のコスパ・タイパ」について語られていた。「家事、洗濯、料理に費やす推定所要時間」「話の長い母親の話を短くする方法」「結婚が遅い理由について理解させる方法」「私のありがた迷惑秘話」「残念な親の特徴」「親ガチャ」などなど。

辛辣な言葉たちに対し、適切な否定言葉が自然に出てこない自分にがっかりしたため、仕事で疲れて帰宅したスバルに「この記事に反対してほしい」と頼んだりした。


 翌日の午後、スバルから疲労で緊急入院したと連絡があった。

(帰宅後も毎晩パソコンばかりしていたからだろうか?ブラック企業に勤めてるのではないだろうか?)

 昨夜、くだらない頼み事をした自分を悔やみながら、病院へ駆けつけた。

病室で、「少し疲れただけだから。大丈夫だよ。」と、笑ってくれた息子の顔を見た時、不安定な心が吹き飛んだ。

「あぁ、昨日は呼び止めてごめんね、スバル・・・知らない人の目なんて気にして、母さん馬鹿だよね。息子を助けたい母の気持ちを許してね・・・」

「わかってるから大丈夫だって。」スバルはまた笑った。


 病室には、スバルの友人と思われる若者が二人来た。

一人はオンライン会話で一番頻繁にスバルと話していた男。一番聞き覚えのある声だったのですぐにわかった。

「初めまして、お母さん!スバルくんの友人のニョキです!」

ニョキは背が高く、明るくてひょうきんで感じのいい青年だった。

続けて軽く会釈をしたもう一人は、神経質そうな佇まいにキツイ目をした女だった。

母も二人に挨拶をしたあと、三人で一階の食堂で食事をすることになった。

いろんな話が聞けるのが楽しみで、母は少し浮かれながら食堂へ向かった。


 ニョキは自分たちがスバルと学生時代から取り組んでいるプロジェクトについて、わかりやすく話してくれた。最新テクノロジーを使ったイベントの主催をしており、ヴァーチャル空間とやらを増やして、日常を豊かにしたいらしい。

ニョキの横でやたらと説明に補足する痩せた女は、カユという名で、スバルの恋人だということを初めて知った。

カユの父親はNFTアートの収集家とやららしく、カユとは意見が合わないらしい。

「自由な創作のために、著作権は放棄されるべきだと思いませんか?」などとカユは言ったが、著作権がないから、創作しないで人気のキャラクターを使い放題して、新しいものが生まれない例を見て育った母にはよくわからなかった。

それに小銭でも儲かるなら何かやってみたいと思ったし、先週、カユの言うさまざまな事柄について否定的な意見が書かれたネットニュースを見た気がしたので、黙っておいた。

 母はカユの高圧的な雰囲気が好きになれなかった。

しかし、後からニョキに聞いた話によると、カユはシングルファザーの兄と同居していて、よく赤ん坊の世話を頼まれているらしい。たまに夫婦に間違われるのがすごく嫌なのに、甥っ子のためによく自分の時間を割いてやっている。

そして彼女はスバルを真剣に愛していて、交際してもう3年になるとのこと。

彼女は同棲を望んでいるが、スバルは答えない。彼女はずっと待っている。

明日のイベントも一緒に参加できない。スバルは退院したらすぐ復職して、また忙しくなるだろう、と落ち込んでいるそうだ。

母は少し気の毒になり、彼女について、多めに見ることにした。


 病室に戻ると、三人に頼み事をされた。

明日のイベントのため、どうしても今日中に、スバルの自宅パソコンに保存されたファイルが必要で、今夜ニョキとカユがうちに来たいと言うのだ。

スバルもそれを望んでいるとのことだったので、母はそれを承知した。


 スバルの部屋には念の為、三人で入ることになった。

手際よくニョキが何かをセッティングし、カユはその横で難しそうな本を静かに読んでいた。

そのうち息子のいない部屋では、オンライン上でわけのわからない会話が数人で繰り広げられ、母は自宅にも関わらず、そこにいることが苦痛に感じた。

「何か手伝えることはないか?」とカユに聞いたが、二人は微笑して首を振ったり頷いたりするだけで、存在を消すことしかできることはなさそうだった。


 子供達が帰った晩、ベランダに出て冷たい空気を吸った。

そして、誰もいないスバルの部屋を覗いた。

(一体、全て・・・なんなんだろう?)

あまりに目まぐるしいスピードで、自分の信念を堂々と示し、人と楽しみを共有しようと努力し、エネルギーに満ちていている子たち・・・

ふと、蘇る自分の少女の頃の記憶・・・

心を閉ざすよう戒めてきた青春・・・

・・・スバルは二、三日で退院できるだろう。

その夜はあまり眠れなかった。


 翌日は子供達が企画したイベントの日だった。

スバルが参加できない代わりに夫の分と合わせて2枚の入場券をくれたので、招待客としてイベントブースに入ることができた。

中は不安になるほどの最新機器と、ご機嫌な若者で埋め尽くされていた。

こんな大きなイベントを主催した息子を自慢したい気持ちで胸が高鳴った。


 しばらく楽しんだあと、休憩スペースで夫が、話しかけてきた。

「はっきり言って残念だねぇ。大義めいたことを言ってたから来たけどさ、やはり考えが単純というか、子供だね。内輪ノリでいくらか儲けたり、バズるなんていうのもできるだろうけど、

売れない可能性の高いものの開発にどれぐらいの時間と労力を費やしたんだろうな?結局これも、その分値段が跳ね上がって、高級な遊び道具にうまく化けるんだろ?何でもかんでも新しいものを昇華しすぎじゃないかな。」

久美子はスバルが否定されている気がして、驚いた表情をして言い返してみた。

「どうかなぁ?それほど文化が豊かになった証拠じゃない?知らない人のために媚びばかり売って、私たちみたいな完全に子供心を失った中年になるよりは、多少荒っぽくてもやりたいことをやって問題提起してる方が今っぽいんじゃないの?この子たちは他人だけじゃなく自分も置いてけぼりにしないらしいし、別に最先端コンプレックスもなくて、たまたまテクノロジーが役立った程度にしか思ってないと思うけど。私たちはデジタルテクノロジーとかなんとかは先鋭的で輝かしく見えてたけど、彼らにとっては家電とかおもちゃだからね。私たちの方が、楽しむ勉強をこれからしなくちゃいけないかもしれないよ。ほら、たとえばデジタル著作権の解放とかさぁ・・・」

 今まで不快しながらも盗み聞きしてきたことが、意外に役に立った。

夫は鼻で笑い、トイレに行くついでで去っていった。

久美子は優越感を抱きそうになったが、浅はかだと我に返り、しかし、中年同士の同調を拒否した反動に胸がときめいていた。


 イベントの後で、病院でその話をスバルにしてやると、笑って喜んでくれた。あと30分後にニョキとカユがくるから、その話をしてほしいと頼まれたので、二人にも話すと同じ反応が返ってきた。

なんだか自分もそのチームの中にいるような、心地いい時間が流れた。

息子と友人たちが、自分の枯れた土に水を差してくれるような気がしていた。

スバルは三日で退院し、また帰宅の遅い日々に戻ったが、前より母の会話も増え、ニュースにも少しだけ理解できる様になってきた。


 ある日、カユの兄が不在中にどうしても行きたい展示があるとのことで、カユの甥っ子の面倒を数時間見て欲しいと頼まれた。

赤ん坊を見るのは息子ぶりだったので、母はもちろん承知した。

やってきた子供はまだ4ヶ月くらいで、頬が赤く、髪の薄い愛らしい子だった。母はこの小さな子の世話をするカユを想った。

 二人が出て行った後、赤ん坊は真っ赤な顔にシワを寄せ、歯が無い口を四角くく広げて泣いた。首に湿疹ができていたのに気づき、清潔で温かいガーゼで優しく拭き、ワセリンを塗った。

(この子の母親はどこに行ったんだろう・・・)

一時間ほど抱いて揺らしてやったところで、赤ん坊は眠った。


 約束の時間が近づいた夜、外を見ると雪が降っていた。

窓を開けると、冷たい風が心地よく頬を刺した。

真っ白な雪の中が、貧相な七竈に被っていた。

白い息を吐いて、冷たい空気を吸った。


窓から差し込む街灯の光に照らされた赤ん坊は、

じっとして、小さな拳を突き上げていた。