小説

『そして僕も、やれることを』川和真之(『ウサギとカメ』)

 

 

 名前が呼ばれた。僕の名前ではない。先月に続いて後輩の名前だった。月初めの営業会議、恒例の表彰に向かう彼女の足取りは軽い。ふんわりとスカートが揺れた。にこやかな笑顔を支店長に向けて、慣れた手で賞状を受け取りお辞儀をする。全体を見渡して、また深くお辞儀をすると、ワンポイントのネックレスが微かに揺れた。ピンマイクを取り付けて、投影された資料の前に立つ。好例事例の共有という名の発表会だった。

 若くて可愛いだけだろ。

 僕は心の中でそうつぶやいた。今月の成績一覧を思い出す。2位は若手の男性社員で、3位には入社したばかりの年配の女性が滑り込んだ。僕はランク外に弾かれていた。

 僕の言葉はさっそく否定され、彼女の言葉は高らかに語られてゆく。需要家に寄り添い、共に進む。一人ひとりの未来を一緒に考える。彼女はすべきことをやり続けていた。頭に思い浮かぶのは、自分自身のことだ。あの場に立つために努力を重ねている。努力の量では、負けていないはずなのに。どうしてなのか。

 発表がようやく終わり、司会者である課長がマイクを取った。

「世の中には、稀に見る才能を持つ人がいる。そしてなおかつ、その才能を過信せずに、呼吸するように努力し続ける人がいる。彼女だ。そのような人についていくにはどうすればよいか、ぜひ考えてみてほしい」

 才能か、努力か。

 努力でカバーできるならば勝ちたいし、だからこそこうして地道に歩んできたつもりだ。しかし、才能のある人に本領を発揮されたらどうしようもない。そう聞こえた。世の中で結果を出すためには、そもそも、才能がないといけないということか。才能のない人は努力をしても、どうやったって、勝てないと。


 支店を出ると肌寒かった。すっかりと秋は通り過ぎ、冬を感じさせた。僕は地下鉄にすぐ乗る気が起きずに、一駅先のターミナル駅まで歩いた。あたりは暗いが、通りかかる若者は眩しく見えた。歩きながらサラリーマン生活を反芻する。関心のある業界で、人とのつながりを感じる営業という仕事を選んだ。それなりに大きな会社で、それなりの給与で、知らない街に転勤することだって嬉しかった。そしてエースと呼ばれる自分を夢見た。

 信号が赤になり、あたりを見渡す。かつての知らない街は、いまでは知ったはずなのに、どこか自分がよそ者であることを感じさせた。来てから一年以上が経過していた。何か得られたのだろうか。わからない。自分なりに頑張ってみても、営業の本を買い漁り、セミナーに参加して、個人向けのコーチングを受けて、実践して、試行錯誤して、見えてきた改善点を実行しても、結果は普通のままだった。

 信号が青になり、惰性で足を運ぶ。ターミナル駅前の広場につくと、人だかりがあった。女性の歌声だった。

 アコースティック・ギターを従えて歌いあげる姿が見えた。遠くから僕はその姿を見つめた。鳥肌が立った。聞いたことのない声色、少し掠れていて、それでいて伸びやかだった。素朴で透き通る印象だが、若々しく力強かった。曲はオリジナルだろうか。ゆったりとしたバラードとも言えないが、軽快なアップテンポの曲とも言えない。好きな曲のイメージがこれなのかな、と僕は思った。

 歌い終わり、拍手がまばらに起きた。僕はなんとなく気恥ずかしくて、遠くから見つめたままでいた。彼女はマイクを取った。マユコというらしかった。上京したばかりだという。

 才能を感じた。努力もできるのだろうか。通り過ぎたはずの不快感が予期せずに降ってきた。僕のような、コツコツとやることだけが生命線である人間とは、違う人生か。

「よければ、もう少し近くで」

 彼女の声が聞こえたと同時に、僕は目を逸らした。もう歩き出していた。

 このまま改札を通る気が起きず、高架沿いを歩いた先のラーメン屋に寄ることにした。最近見つけたこのラーメン屋で疲れを癒すはずだったのに、たどり着くと、そこには長い列が続いていた。並ぶ気は起きなかった。僕は深いため息をつき、来た道を戻った。戻ってみると、彼女はもういなかった。

 なんだ、こんな短時間で引き上げてしまうのか。

 才能にかまけて、油断する人にならば勝てる、そう思った。僕は立ち止まってスマートフォンを手に取り、彼女の検索を試みた。

 冷たい風が吹きつけた。希望する予想はことごとく外れていた。彼女が地元で多大な評価を受けて上京をしてきたこと、事務所に所属することが決まっていて、レコーディングをしながらデビューを待っていることがわかった。それだけではない。ストリートミュージャンとしての活動も辞めてはいなかった。こまめに場所を変えては、寒空の下、歌い続けている。いまもまた、どこかで歌っているのだろう。

 僕は改札に向けて歩きだした。寄り道をしたら、マユコを見つけてしまうかもしれないから。不快の雨はまた降り始めた。もう、そんなことをする必要はない。未来を保証されているのだから、そんな泥臭い活動は辞めればいい。改札までの道、人が多いことに苛立ちを覚えた。信号機の故障か何かで、ホームは人混みで溢れていた。

 家に着きすぐに転がってみても、なかなか眠りはやってこなかった。天井を見つめていると涙が頬をつたった。社会に出て学んだのは、才能があるからといって、油断をしてくれるわけではないということだ。むしろ才能がある人ほど、油断はしない。現実はこれだ。それでも活躍したい、そう思った。この考えは、傲慢なのだろうか。

 すると、仕事用の携帯電話が鳴った。嫌な予感がした。課長の文字が示されている。

「お前いまどこにいるんだよ」

「布団の、中ですね」

「早過ぎだろ。いまからこーい」

 酔っ払っている課長からの電話は、さほど珍しいことではなかった。行きたくないな、といつも思う。しかし拒否権のチケットは見当たらない。仕事上のヒントが得られることも多いと言い聞かせ、奮い立たせて出かけることがほとんどだが、今日はどうしても、起き上がる気力が湧かなかった。僕が黙っていると、課長は電話の相手を変えてきた。

「先輩もきてくれますよね?」

 ふんわりスカートの後輩だった。ますます行きたくないと思った。

「いかなきゃダメかな」と僕は言った。

「他の人たち帰っちゃって。私をひとりにしないでくださいよ」

 さらに、行きたくない気持ちが湧き起こる。比較されて、説教が始まる未来を予見した。

「気が向いたら、行くよ」

 僕の言葉に、後輩は深いため息をついた。

「そういう、ところなんじゃないですかね」

 後輩は大きな声で、先輩、気が向いたら来てくれるそうです、と言った。その言葉に対する課長の声は聞こえなかったが、簡単に想像はついた。後輩は「いつものお店にいますね」と言い、電話は切れた。

 静寂がやってきた。時を刻む音だけが、コツ、コツと響いた。最初から断る権利なんてないことくらいわかっていた。うまく立ち回ることができないのも、才能の不足か。僕の身体は、まるで鉛のようだった。


 飲み会がようやくお開きになり、僕は再びターミナル駅前の広場を通りかかる。日を跨ぐ時間に差し掛かっていた。行き交う人々はほとんどいなかったし、もちろんマユコもいなかった。

 僕は、彼女のいた場所に立ってみた。初冬の夜風は身体に堪えた。デビューが決まっても、こんな寒い場所で歌えるものなのか。ここからの景色はどう見えているのか。知りたかったけれど、話しかける勇気はないし、ライブ会場まで足を運ぶのも違う気がした。

 帰ろう。そう思いタクシー乗り場に向かう。乗り場につくと、長蛇の列が目に入った。苛立ちとともに空腹感がやってきた。何かを胃袋に入れないと気が済まないような気がした。僕は仕事終わりに諦めたラーメン屋に入り麺を啜ることにした。

 店内はうってかわり、がらりと空いていた。時計を見ると、閉店までは1時間を切っていた。瓶ビールで一人飲み直そうと、席に座りメニューに目を落とす。店員を呼ぶために顔をあげると、ギターが目に入った。マユコが一人座っていた。たいらげたどんぶりを前にスマートフォンを触っている。

 注文をするときの僕の声は泳いだ。しばらくすると彼女は、遠くを見つめて何かを考えているようだった。凛とした横顔だった。彼女はしばらくして立ち上がり、大将らしき人に声をかけた。

「美味しかったよ」

「おお、ありがとな」

 大将は手を挙げて応える。彼女はニカッと笑う。八重歯が少し見えた。ギターを担いで、手を振って帰っていった。僕はそのまま、瓶ビールをちびちびと飲み続けた。他の客が帰路についてゆく。店内は僕と大将だけになった。僕は会計を済ませるために立ち上がり、そして勇気を出す。

「さっきのあの子、歌を歌ってる子ですよね」

 大将は訝しんだが、スーツ姿が功を奏したのか小さく二回頷いた。

「いい歌を歌うよな」と大将は言った。そして続けた。

「ここでライブをやるから来てみたら?」

「ここで、ですか」

「ラーメン屋でしちゃいけないルールなんてないぞ」

「いや、でも、彼女ってデビューするんですよね」

「お、どうしたんだ」唐突に大将は言った。

「あった。やっぱりここだ」

 彼女は座っていた席に向かい、机の下から、スマートフォンを取り出した。満足そうに大将に掲げてみせる。

 僕は突然の展開に、言葉が出なかった。

「あ、今日のサラリーマンの人だ」と彼女は言った。

「え?」としか、僕は言うことができなかった。

「すごく辛そうでしたけど、大丈夫ですか」

 一呼吸おいて、「よく、わかりますね」と僕は驚く気持ちを伝える。

 店長は少し話していったらどうだというが、改めて、何を話せばいいのか思いつきもしなかった。「応援してます」とだけ伝えると、彼女は嬉しそうな顔を見せた。すると、一つ聞いてみたいことが生まれた。質問をしていいか聞くと、彼女は頷いてくれた。

「才能と、努力、どちらが重要だと思いますか?」

 その質問に彼女は即答した。

「その二択だと、才能ですかね」

「やっぱり」と僕はつぶやく。

「でも、才能ってあるかないか、見えなくないですか」

 はっとする。確かに、それはそうだなと思った。マユコは黙っている僕に言葉を続けた。

「才能があるかどうかはわからないから、せめてやれることは毎日やろうって感じですよ」

「僕は、毎日やっても、結果が出ないんだよね」

「うーん。やり方が悪いのかな」

 悪気なくストレートに言えるのは、すごいと思った。僕の方が年上だし、まして初対面だ。普通じゃないなと思った。だからこそ、としか思えなかった。

「君の場合は、才能に溢れていて、それでいて努力しているからだよ」

「なんか辛気臭いなぁ」

 タメ語で話してくる女の子に言い返している。僕はいま、ここで何をしているのだろう。そんなふうにも思ったが、続けて今日の出来事を伝えてみる。彼女はひとしきり聞いてくれた後、納得できない様子で、こう言った。

「よくわからないけれど、ピシッとスーツを着てお仕事している時点で、すごいですよ。私は勉強なんて全然したいと思えなかったし、朝ちゃんと起きるのも無理そうです。充分すぎるくらいの才能と努力です」

 この子は嘘をつかない。それは確かなような気がした。彼女にこんなことを言わせた自分が幼いような気がした。しかし、心は暖かさに包まれた。そんな僕をみて彼女は大きな声で言った。

「とりあえず一曲聴いてってください。もうそろそろ閉店だし、いいですよね?」

 大将はうなずき、マユコはテーブル席でギターケースをひろげた。そのギターをかき鳴らすと、ラーメン屋はあっという間にライブハウスとなった。

 彼女はやはりすごかった。彼女の歌には、元気にしてくれる何かがあった。こうありたいと思えた。この子の言うとおりだと思えた。マユコも、後輩も、そして僕も、やれることをやり続けるしかないのだ。

 彼女の音楽を聴きながら、僕は明日、何の仕事から取り掛かろうかと、そんなことが頭をよぎっていた。


(了)