小説

『あたし、はぐれもん』かわのももこ(『パンをふんだ娘』)

 

 

 マスクが、風に飛ばされていった。

 飛んだマスクの方向を見ていたら、鳩の姿があった。公園の中で鳩たちは忙しそうに首を動かし、土をついばんでいる。都会に住む鳩たちは人間に対しての警戒心もなく、そばにいけば何か貰えると思っているのだろう、誰に対してもほぅ、ほぅーと鳴きながら近寄ってくる。

 仕事なんて、どれも一緒だ。

 そう考えているが、昼と夜の仕事では明らかに違う。給料も違うが、精神面にも影響が出る。夜の仕事にとって必要なことは、自分をおおっている皮を一枚、また一枚と脱ぎ捨て、最後には空っぽになって、お金を落としてくれる客に微笑みかけることだった。笑いながらも、心だけは違う方角を向いている。そのことを他人に悟られないように、時には自分自身の気持ちに蓋をして、ただ微笑み、相手が言っていることにうなずくことだった。身体は消耗しないが、精神面がぼろぼろになる。

「のんびりちゃん」

 店内では、そう呼ばれている。まわりには笑ってうなずいているだけ、と思われているからだ。ぼんやりしていることは確かだけれど、それに対して反論することもなく、「のんびりちゃん」というあだ名は、自分にとっても都合がいい。「素人ぽっさ」が受けているのだから、「素人」らしく、何も知らない顔をして働いていればいいのだ、と言い聞かせている。

 夜のあたしは、あたしじゃない。それでは、昼のあたしはあたしなのか?。

 Yesとは答えられないから、昼は大学へ行って、夜はスナックで働いている。大学、と言ってもコロナになってから、授業はほとんどがビデオ通話だった。

 鏡に写った自分が他人であるかのように感じることは、誰にでもあることだとしても、現実と虚構、どちらの側にも居場所がない。どこを向いても弾かれている。それが今のあたしだった。

 目的がないと、夜の商売なんて始めるものじゃない。自分の場合、学費の工面ということがあるから何とか続いているが、そうじゃなかったら、とっくの昔に辞めていただろう。

「エリ、あんた、何とか言ったらどうね」

 そんな風に突然すごまれ、黙って下を向いた。

「片岡さんが加奈の彼氏だってこと、よく知っているんじゃないの」

 それはそうだが、店が終わって片岡の方から誘ってくれたのだ。誰にだって崩れそう夜はある。このまま離れたくないと思い、ひとつになって眠ることのどこが悪いのだろう。

「そのうち、バチが当たるよ」

 アンが顔を歪めて言った

「もういいじゃない。もともとそんな女なんだから」

 静香の言葉は、胸を刺すのに十分な力を持っていた。

 ショックだったのは、「そんな女」と言われたことと、片岡があたしと寝たことを第三者に喋ったことだった。普通、そんなことは他のひとには言わないものだ、という感覚があった。

 それでも表面上は動揺していないふりをして、夜のバイトを続けている。居心地は前より悪いが、それも仕方のないことだと思うようにした。

 一羽の鳩が近寄ってきた。よく見ると、他の鳩に比べて灰色、というより白地に薄いグレーが混じったような姿をしている。

 あんたも、他の鳩から見放されているの?。

 心の中でつぶやいたあとで、持っていたクッキーの箱を開けた。出張に行ったお客から貰ったものだった。こちらは何とも思っていないのに、それを表面に出すわけにもいかず曖昧な顔をしていたら、客は何を勘違いしたのか、それからしつこくまとわりついてくるようになった。

 全部、食べていいよ。

 クッキーを指で砕きながら、地面にばらまいた。そのあとで、落ちたぼろぼろのクッキーをまたいで、自分の住むアパートに帰ったのだった。


 博多駅の裏側にある病院は大きい。

 診療科の数も、中で働いている人たちもある意味、巨大と言っていい。

 ここへ来たのは、姪の晴海が入院しているからだった。

 あたしより一回り上の姉には、七歳になる女の子がいた。二十四歳のときに結婚して、そのあと半年ほどして晴海を産んだ。計算が足りないのは、結婚前に晴海ができたからだった。

 姉はひとりで悩んでいた。この子を産もうか、産むまいか。そして、産むことに決めたのだった。「できちゃった婚」と簡単に言うが、その原因は女性というよりも男性にある、とあたしは思っている。それでも義兄は優しかったし、姉も幸せそうだった。姉は勤めていた会社を辞め、晴海が四歳になるとパン屋でパートとして働いた。だけど、晴海の目が悪くなった。

「どうかしたの?」

 あたしが黙っていると、晴海が尋ねた。

「うん、ちょっとね。だけど、大丈夫だから」

「ふぅーん、ちっとも、大丈夫そうには見えないけどね」

 笑いながら言う晴海に対して、いつのまにかこちらも笑ってしまうのだった。晴海の笑顔は、洗いざらしの綿シャツのように気持ちがいい。眉と目が垂れて、真っ白い歯が顔いっぱいに広がる。他人のために無理をして装い、金のために笑っている、そんなあたしの作り笑いとは違うものだった。

「お姉ちゃん、あのね、私、このあいだ妖精を見たの」

 晴海がそう言って興奮気味に話をしたのは、一週間前のことだった。

「まだ誰にも言ってないことだけどね…」

 そう言って話し始めた。

 病院には、広場がある。

 広場には、見上げるような大きな木があった。屋上を改装した庭で、雀やシジュウカラが来ている緑豊かなところだった。入院している人やお見舞いに来た人が、ほっと息を吐くことができるように作られている。集まった人は、全員がマスクをつけていた。お見舞いに来た人達は、その屋上を一周回ってから帰る。入院している人も外出は15分以内と決められていて、あわてて帰っていくのだった。コロナの波は病院という特殊な場所では、まだ力を衰えさせていないのだ。

 ひとり、年配の女性が座っていた。この人だけは、マスクをしていない。年齢もいっているのに、マスクをつけていない人を見るのは珍しかった。

「マスクばしとると、息が出来んごたっけんね。世の中の空気を、力いっぱい吸いたいけん、マスクはしとらんとよ」

 筑後弁だろうか、そんな言葉を使って喋りかけた。

 しばらくしてから晴海が、あれ?、と驚いた顔をした。もう一度、目を凝らしてみる。

「おるね」

 隣のベンチに座っていた女性が、小さな声で言った。

「やっぱり、いますか?」

「うん、おる」

 それからふたりして、妖精を見ていた、と言う。

 大きさは雀くらいで、水色の服を着て、咲いている花のまわりをひらり、ひらりと飛んでいるのだった。遊んでいるようにも、何か一生懸命、仕事をしているようにも見える。

「何の病気ね?」

 妖精に目をやったまま、女性が尋ねた。

「目が悪くなって、入院しています」

 年配の女性は笑いながら、「きっと、良くなるよ」と言って、晴海の頭を優しく撫でた。

 このあいだ、その話を晴海が一生懸命にするので、たまたま寄った雑貨屋で妖精の人形を見つけたときは、驚いて手に取っていたのだった。話していたものとは違うピンク色の服を着ていたが、大きさは10センチくらいの人形だった。それを持って病室に行った。

「晴海」

 名前を呼ぶと、いつもの笑顔で迎えてくれた。

「これ、プレゼント」

「わぁ、何やろか」

 言いながら、リボンに手をかける。そのとき一瞬だったが、あたしは「違うもの」を感じた。何をどう言っていいのかわからないが、リボンの位置を探っているように見えた。しかし晴海はそんなことは関係なく中から人形を取り出し、うれしそうに胸に抱えている。

「きれいな服を着とるね…」

 あたしは言った。

「うん、水色の服ば着とる。それにしても、どこで見つけたと?」

 尋ねられたが、あたしは黙りこんだ。

「こんなのが私、欲しかったとよ。ありがとう」

 抱きついてきた七歳の女の子の体を、力いっぱい抱きしめた。

 こんなことがあっていいのか。

 そう思った。

 これから、晴海は暗闇の世界で、ひとりきりで生きていかなければならないのか。

 「絶望」という言葉を思い出した。

「すみません、10分経ちました」

 若い看護師が病室にやってきた。コロナのせいでこの病院では、お見舞いは10分までと決められており、手に持ったブザーが鳴っていた。

「お姉ちゃん…」

 その声に振り返る。

「私ね、いつもお姉ちゃんが幸せになることを考えとるとよ。だって、お姉ちゃんってかっこいいもん。だけん、そのままでいいと。お姉ちゃんはそのまま生きていけばいいとよ」

 立ち上がったあたしに、晴海が言った。根を精いっぱいに生やして立っている屋上の木と同じ優しさと強さがあった。

「また、来るけん」

「うん。またね」

 手を振りながら、涙がいっぱいに溜まっていた。晴海から見えないように顔を背けたとき、看護師が驚いた顔をした。


 帰り道、姉のところへ寄った。姉の家へ来るのは久しぶりだ。

 父親が飲み屋をやっている女性と逃げたのは、二年前のことだった。

 両親は仲が良いということもなかったが、悪くもなかった。ただ母は、父の機嫌を損なわないように、気を使っていたことも確かだった。どこか「壊れもの」のように扱っていた。しかし父親が逃げたことで、母親の体調が悪くなった。悪くなったというよりも、徐々に壊れていった、と言った方がいい。

「そんなに、愛していたのか」

 そんな風に考えたこともあったが、ずっと専業主婦でやってきて、外で働いたこともなく、ひとりぼっちになった母には母なりの葛藤があったことは確かだ。制度的な問題もあるが、経済的に自立できないということは、ひとりで生きていく力がないとも言えた。体調が壊れたとき、姉とあたしは、ここまで来たかと感じた。母親をとりあえず病院に入れて、今に至っている。

「夜の仕事はどうなの?」

 コーヒーを出しながら、姉が聞いた。

「うん、まあまあ」

 素っ気なく答える。

「事情もわかるけど、来年は大学も卒業するし、その前に夜のアルバイトは辞めた方がいいと思うよ」

「うん、わかっとる。卒検もあるし、それも制作せんといかんしね」

 姉の顔には、疲れが滲んでいた。

「お姉ちゃん、晴海の話、聞いとる?」 

 今度は、あたしが尋ねた。

「妖精を見たって話でしょう。だけど晴海には言うとらんけど、あのとき一緒にいたおばあさん、亡くなったとよ」

 亡くなった?。

「癌、だったらしいの。そして、晴海は目が見えなくなるかもしれない…」

 その言葉を聞いて、ある部分に思い至った。

 晴海が話していた妖精は、亡くなる人と、これから目が見えなくなる人にだけ見えていたものなのではないのか。だから鮮やかな姿をして、花のまわりを飛んでいたのではないか。

「晴海の目、見えんごとなると?」

 力をこめてあたしは言った。それ対して、姉は力強く首を振った。先ほど自分が言ったことを否定するような仕草に見えた。

「そうならんごと、今、入院しとる」

「どうして、私たちばっかりこんな目に合わんといかんとかね」

 吐き捨てるように、あたしは言った。

「親父のせいで、何もかもめちゃくちゃになって、その上、晴ちゃんの目が悪かやなんて…」

 その言葉をさえぎるように、姉が口を開いた。

「仕方んなかよ。明日のことは、誰にもわからんことやけん」

 姉が息を吐きながら、声を出す。

「だけど、晴海の目は手術したら見えるごとなるかもしれんって、先生が言いよらしゃった。そこに望みを持っとると」

 姉の言葉には、「何としてでも、晴海を守りたい」という気持ちが現れていた。

 晴海の手術の日は、来週の水曜日だ。

 使わなくなった真新しいランドセルが、机の横にかけられていた。


 夜の仕事を辞めて、あたしはキャンパスの前にいた。

 大学の美術学部では、卒業検定で作品を制作しなければならない。普段通りに髪の毛をひとつに結び、すっぴんに眼鏡、汚れても構わないTシャツにジーンズ姿で真っ白いキャンパスの前に立った。今のあたしの格好を見たら、夜の仕事をしていたなんて誰も思わないのではないか。

 太陽に向って手を伸がばしている晴海の姿を描くと決めてから、呼吸するのが楽になった。こんなに深く呼吸をするのは久しぶりだった。

 あの日、晴海が見た妖精は、「どんなことがあっても生きていこう」という勇気を持った人と、他人に対して思いやりの気持ちを持っている人に見える特別なものだったのだ。

「絵梨ちゃんの描く絵、何か、違うね」

「うん、何て言うか、こう、はぐれとる、と言うとかね」

 まわりで作品を作っていた人たちが集まってきていた。そんな言葉を耳にしながら、あたしは赤色をつけた筆を一気に走らせた。