小説

『一人メロス』亜古鐘彦(『走れメロス』)

 

 

 兄は激怒した。かの、小さい時は可愛かったのに邪知暴虐となってしまった弟を何としても改心させねばならぬ。兄は大学生であった。大学の夏休み、これといって予定のない兄は、久しぶりに実家に帰省していた。兄には、流行りがわからぬ。テレビやSNSもろくに見ず、数少ない友人と日夜ヘンテコな様々に熱を上げて取り組みつつ、一生懸命に日々を過ごしていた。

 そして、可愛い可愛い弟の成長に敏感であった。実家住まいの頃は、幼い頃から弟を可愛がっており、やれ弟が同級生に意地悪されたと泣いていれば、飛んで行って愚かなことはやめろと成敗し、弟がコケて血を滲ませれば鬼の形相で大学病院に担ぎ込んだこともあった。しかし、月日は流れた。


 夜遅くに帰省した次の日の朝。兄がリビングに顔を出すと、机に弁当がぽつんと置かれている。母が弟のために毎日丹精込めて作ってくれている弁当が、持っていくのを忘れられているのだ。時刻は9時前。弟はとっくに家を出ている時間である。

 昨日の深夜近い時刻に帰った兄は、翌日からの部活合宿に向けて早寝した弟とすれ違いになり、まだ顔を合わせていなかった。しかし、しっかり者の弟が弁当を忘れるとは思えない。そう思って、はたと気づいた。

 あいつめ、ついに“反抗期”という悪魔の季節に入ったか。

 そして冒頭に戻る。


 母さんが作ってくれた弁当を置き去りにするとはなんたる悪心。我が弟ながら恥ずべき行為だ。帰ってきたら、喝だ。いや待て、弟は、俺が昨晩帰省するのを母さんから聞いていたはず。とすれば、この置き去りにした弁当をリビングで見かけることもわかっていたはず。その上で置いて行ったという事は、「兄貴なら、きっと可愛い弟のために弁当を届けてくれるだろう」と予想をしたということか!なんて奴だ!もしこれを届けなければ、弟はきっと俺に失望し、心底憎むだろう。この兄の信頼と慈愛の心を質にしているつもりか。兄は、大学生になった今もお前のことを依然変わらず大事に思っているというのに。よし、いいだろう。その戦い、受けて立ってやろう。

 こうして、勢いのまま膨らませた風船ガム的妄想の末に、兄の兄弟愛を賭けた一方的な戦いが幕を開けた。


 兄が健気に妄想に妄想を膨らませる一方で、弟は小さい頃と変わらず、兄のことを「変な人だな」と思いつつ大好きであり、実家に帰ってくるのを楽しみに待っていた。いつもその真っ直ぐな情熱が、真っ直ぐすぎるあまり、やや的を外してしまうような兄の生き様に誇りすら感じており、攻撃的思春期などとは無縁の心優しい高校2年生に成長していた。

 朝9時過ぎ頃、合宿所に到着した弟は母から一件の連絡をもらった。

『お弁当忘れてたよー』

 親指をスライドさせ素早く返信する。

『母さん昨日も言ったよ。今日お弁当いらない日って』

すぐに返信が返ってくる。

『あ。そうだった』

 我々、手のかかる兄弟を育ててくれた頼りになるたくましい母だが、少し抜けているところがある。

『じゃあもったいないから、お兄ちゃんのお昼にしてあげ』

変なところで切れたメッセージが送信されて来た。

『ない』

『何が?』

『さっきまで机にあったお弁当がない』

『???』

しかし、弟はぴんと来た。

『兄貴、家にいる?』

『靴無いからいないかもしれない。スマホはあるけど』

『スマホ置いて行くの兄貴らしいね笑』

『え』

『お昼ごろ合宿所まで車で来てください。回収お願いします』

『そういうことね(笑) 了解しました』

 大慌てで、スマホも忘れて飛び出していった猪突猛進な兄を止められる者はもうどこにもいない。母は、出発時間を逆算しながら、ゆっくりと朝食を食べ始めた。


 その頃兄は、弟がいる合宿所とは真逆の方向へ一心不乱に走っていた。

 兄の誇りにかけて、弟にこの母の愛のこもった弁当をなんとしても届けねば。しかし、ご近所の旧友に映画のDVDも返さねばならない。以前から約束していた事だから、こちらも破るわけにはいかない。正午までの時間は少ないが、力の限り走れば間に合わないこともないだろう。

 兄は力いっぱい走った。走る道中、兄の脳裏には、世話を焼きながら弟と過ごした日々が鮮明に思い出された。


 弟は幼い頃、少々引っ込み思案なところがあった。いつも兄の背中に隠れて、物を言おうとしてももじもじするばかり。しかしながら、ただ恥ずかしがりやという訳ではない。弟なりに思うところはあったものの言葉が口を突く前に、それらを飲み込んでしまい、外に出すより内でぐるぐると言葉を溜めてしまう癖があったのだ。それは弟の不器用なところであり、情けない側面であり、小心者たらしめる短所であったが、同時に底知れぬ優しさの根源でもあった。

 弟はある時から、兄や母が「行ってきます」というと、いつも行ってらっしゃいとは言わず、「気を付けてね。帰ってきてね」と言うようになった。こちらは決まって「帰ってくるよ」と返す。

 弟は父が亡くなった日、いつも言っていた「気を付けてね」を言い忘れたことをいつまでも後悔している。父が帰って来なかったのは、自分が言い忘れてしまったからだと。弟はまだ5歳だった。そのせいで、弟は言葉を扱うのにひどく慎重になり過ぎるようになった。何か足りない言葉があるのではないかと、口に出す前に推敲を重ね、ついには口に出さないことが多くなった。

 そんな弟を、もちろん母も兄も心配していたが、気づけばいつの間にか弟はそれを克服し、以前のように話すようになっていた。何かきっかけがあったのだろう。流石は俺の弟だと兄は感心するばかりだった。


 そんな日々をぽわぽわと思い出していると、兄はあっという間に旧友の家に着いた。

「おはよう!お久しぶり!少し時間早いけど、DVD返しに来た!」

 玄関から叫ぶと、奥の居間からお爺さんが出てきた。

「久しぶりじゃのう。面白かったじゃろ、この映画」

「めちゃくちゃ面白かった!特に終盤のAIが人間に復讐を仕掛けるところの演出が最高だったし、爺ちゃんが好きなのもわかる」

 久しぶりの映画談義に、兄は早口気味に感想を述べた。

「そうじゃろう。これの続きが来年公開なんじゃ。楽しみじゃのう。おお、今日は茶を飲んでいく時間はあるのか?」

 正午までの時間に余裕があるとは言えないが、迷いながらも、少しだけならと兄はお爺さんのお誘いにのって縁側へ座った。

 縁側から見えるお爺さんの部屋の棚には、これまで集めてきた映画のDVDがずらりと並んでいる。実家にいる頃は、しょっちゅうお爺さんの家へ弟とお邪魔し、映画を一緒に見ていた。ひとりで暮らすお爺さんは、話し相手になってくれて嬉しいと兄弟をいつも歓迎してくれた。歳はかなり離れているし、耳もだんだん遠くなっているけれど、他の誰と会っている時とも違う居心地の良さが兄は大好きだった。

 兄が中学生の頃、傘を忘れてしまったお爺さんを助けたことがきっかけで始まった縁。傘のお礼にずいぶん大きなお返しをしてもらっているなと、兄はしみじみ思うのだった。


 しばらく話す内に、もうここでゆっくりお昼まで爺ちゃんと映画の話をずっとしてしまおうかと兄は思った。どうせなら、この暖かな縁側で昼寝でも…。しかし兄は、そばに置いていた弁当箱を見て我に返った。弟との約束を破るわけにはいかない!

「ごめん。そろそろ出ないと」

「そうかそうか、またおいで。いい映画を見つけたらまた葉書を送るよ。住所は変わってないな?あとこれも持っていきなさい。ひとり暮らしじゃ賞味期限が切れてしまう。袋はいるか?大丈夫か?まぁ、葉書送らんでもいつでもおいで。気をつけてな」

 この怒涛の送り出しも慣れたもの。兄は、お土産の茶菓子を抱えてまた走りだした。


 兄が再び走り出した頃、弟は、弁当を持って走っているであろう兄を思い浮かべながら部活の練習に励んでいた。弟が弁当を忘れていると思った兄が、自分の元へ走っていると確信するのは幼い頃約束したからである。

 幼少期のある日、兄弟は家で留守番をしていた。厚い雲が空を覆い、冷たい雨を降らせる中、弟は毛布に包まってすやすやとお昼寝に精を出していた。

 しばらく寝た頃、ふと目を覚ますと、兄がいない。いない。また、家族がいなくなってしまう?頭で理解するより速く、すでに瞳からは涙が零れ、後から声が漏れ出した。また「気を付けて」を言っていない。

 しかし弟の泣き声に気が付いた兄が飛んで帰ってきた。

「ごめんな、ごめんな。でもな、心配しなくても兄ちゃんは絶対に帰ってくるぞ!雨が降ってきても、兄ちゃんは雨をよけられるし、弟のお前が困っていたら、すぐに飛んでいけるんだぞ!約束だ!」

兄は高らかに宣言し、弟の肩をひしと抱きしめた。その時弟は、兄の雨に濡れた髪や服を見て、兄は元来こういう人だったと気づいた。

 兄は困っている人を見たら助けずにはいられない性分である。その結果、ある時は泥だらけで、ある時は大きな花束を抱えて、ある時は段ボールいっぱいのみかんを持って帰ってきた。なのに、いつも何もなかったフリをする。そして、褒められることが照れくさいのか、兄はいつだって「ただいま!今日は何してたんだ?」と言って、こちらからの質問を受け付ける隙を与えず、弟に駆け寄る。弟はその度に、こっちのセリフだと思いながら母と目を合わせて笑った。

 まさに今も、どう見ても雨に打たれているのに兄は素知らぬフリをして「よけられる!」と言う。それは兄の不器用なところであり、負けず嫌いな側面であり、頑固一徹な兄たらしめる特徴であったが、同時に相手に心配をさせまいとする底知れぬ優しさの根源でもあった。弟は、そんなお人好しな兄の弟として、いつだって兄の事を信じようと心に決めた。変な兄だが、約束だけは守る。その心には気高く実直な精神が宿っているのだ。その日から、ぽっかりと空いていた穴が埋まったように弟は生きる元気を取り戻し、以前のように話すようになったのだった。


 旧友の家を後にした兄は走った。邪知暴虐な弟も、質に取られた信頼も、暴言に怯える母もいないが、兄は全速力で走っている。メロスの如く顔を歪めつつも必死に風を切って走っている。弟のお弁当を抱えて。弟との約束を抱えて。

 あ!ふと見た公園で、子供たちが木を見上げて何やら困っている。風船が木に絡まってしまっているんだ。放っておく訳にはいかない————。


 正午丁度、練習に励んでいた部員たちはどよめいた。般若と見違える形相で、吹き出す汗を飛び散らせながら、右手に弁当、左手に茶菓子の袋4,5個を抱え、おまけに頭には花飾りを乗せた男が合宿所に乗り込んで来たのだ。

 狼狽える部員たちの中から、兄は一目で弟を見つけ出し、最後の力を振り絞って駆け寄った。弟は小さい時と変わらない無邪気な笑顔で兄を迎えた。

「すまん、弟よ。失望するかもしれないが、俺はここに来るまで一度、もう正午までの到着は諦めてしまおうかと考えてしまった。あと、お前が悪魔のような思春期坊主になってしまって、母さんに罵詈雑言を吐き、更には兄である俺を疑っているのではないかと、つまらない考えを巡らせてしまった。そんなはずは無いよな。このどうしようもない兄を殴ってくれ」

 弟は、兄の姿を見て、相変わらず道中いろいろあったんだなぁと察した。

「大げさだな、兄貴は。大学生になっても変わってないね」

 息を整える兄にタオルを手渡して、弁当、茶菓子と交換した。

「安心して。俺は兄貴を嫌いにならないし、口の悪い不良にもなってないよ。母さんのおっちょこちょいを一人でフォローするのは大変だけどね」

 兄は眉間にしわを寄せたまま、弟の顔を見上げる。

「お前は…お前は、本当に優しい奴だなぁ。俺は嬉しいよ…」

「でも兄貴、漢に二言はないよ」

 弟は力いっぱい、兄の額めがけてデコピンをした。

 兄は1歩、2歩と後ずさったが、情けない姿を見せてはなるまいと背筋を伸ばした。

「じゃあこの機会にだけど、昔、兄貴が覚えのない皿割りの罪で母さんに怒られたことあるだろ?あれ、俺がやったんだよね。ごめんね、デコピンしていいよ」

「そうか、漢に二言はないな」

 兄は、全力でデコピンした。弟の額は数日腫れたらしい。

 そこに、弟が連絡していた母が到着した。他の部員や顧問の先生たちから、不本意に注目を集める兄弟が恥ずかしかったが、兄の姿を捉えると、もはや恥ずかしさを越え、呆れかえって叫んだ。

「あんた!またTシャツ裏っ返しに着てる!!」

 兄はひどく赤面した。