小説

『蜘蛛の業』仁瀬由深(『蜘蛛の糸』)

 

 

1.

 潰されないですんだことは幸いだった。漆黒の地面に小さく丸まりながら、蜘蛛は身震いを抑えることができなかった。真っ黒な塊になって降ってきた無数の人々は轟音を響かせて地表に叩きつけられ、悲嘆と怒りの声を上げた。まるで終わることの無い落雷のようだった。罪人たちは四肢が粉々に砕かれても意識があり、その存在も消えることはないようだった。永劫に輪廻の輪に戻れず地の底にのたうち回るその姿は、命に刻まれた悪業が消えることがないことを証明している。

 今はただ静まった地獄の底に、鬼に責められる罪人たちの悲鳴が方々に上がるばかりだ。

「おい」

 すぐ近くでしゃがれ声がした。カンダタが三白眼をこちらに向けている。たった今、自分の出した糸にしがみついて脱出を試みたが、失敗した男である。蜘蛛はなんとか自分を奮い立たせ、うやうやしく頭を下げた。

「カンダタ様、その節は大変ありがとうございました。おかげさまで蜘蛛として平穏に一生を終えることができました」

カンダタはその言葉が一切耳に入らない様子で、暗い上空を見上げた。

「お前、もう一度上に行ってこい」

なんと無茶を言うのだろう。

「なんですって…… 無理ですよ」

蜘蛛は八つの単眼をくるりと回して答えた。

「あの針山の上まで行ったところで、天上まではずっとずっと距離があります。私はあなたさまが登ったところよりずっと上の方から降りてきたのですよ」

「嘘を言うな。天上はもうすぐのところまで見えていた」

押し問答になりそうな気配を感じて蜘蛛は身を引いた。

「そうだとしても、あそこまで登っていく手立てがありません。私の糸はどこかにひっかけて降りるしか能がないのですよ」

「最初から諦めるな。やってみなくてはわからん」

食い下がるカンダタに蜘蛛は呆れた。

「そうしたところでどうするというのです?一体、その姿で?」

 カンダタは落下した際、首が折れ曲がって耳が頚椎に接触していた。四つん這いに立とうとする様子は、足の足りない蜘蛛のようだ。もう一度糸にしがみついてよじ登っていくことは困難に見えた。

 「あなたさまが他に助けたものはないのですか。私は生前あなたさまに助けられたご縁でお釈迦様からあなたさまを助ける機会をいただいたのです。うまくいきませんでしたが……他にそういったものがあれば、そのものがやってくるやもしれません」

カンダタは「何」と小さく唸って黙り込んだ。前世行った善行をなんとか思い出そうとしているのだろうか。

「釈迦は俺を助けたいのか」

蜘蛛は質問の意味がわからず、小首を傾げた。

「俺を助けたいからお前を寄越したんだろう」

「お釈迦さまは誰のことでも助けたいと願っておられるようです」

カンダタは再び「何」と唸り、黙り込んだ。

 釈迦だけでなく、仏というものは皆そうなのだろうと、蜘蛛は思う。悪人であろうと獣であろうと、仏を蔑み信じないものであろうと、天上の仏たちは皆そういった思いを持っているようであった。蓮池の淵に集まって額を寄せて下を覗き込んでは、罪人たちの様子について討議し、何か手を打てないかと相談していることがある。蜘蛛はそういった仏たちの談義を聴いているのが好きであった。

 不意にカンダタが蜘蛛をつまみ上げた。

 「であれば、だ。釈迦がお前を地獄の底へ放り投げてそのままであろうはずがない。必ず天上へ戻れるよう手立てをするはずだ」

 「はあはあ」

さもありなん、だ。しかし、その方法は自分のような下等生物では全く思い至るものでもない。

「でしたら、しばらくは何が起きるか待つしかありませんね」

蜘蛛はヒョイ、とカンダタの肩に乗った。

「私への救済が取られるのでしたら、常におそばに居れば、あなたさまも『その時』に便乗できるはずですね」

蜘蛛の提案にカンダタは気を良くして笑みを浮かべた。その顔は凡夫の目に見れば恐ろしい邪悪なものであったが、蜘蛛の目には愛らしく映った。誰かに頼られるということはこんなにウキウキとした気持ちになるのだと初めて知った。それが「誇り」という感情なのだということはまだ蜘蛛は知らないのだった。


2.

 その時から蜘蛛は常にカンダタと行動を共にした。地獄での日々は凄惨を極めるものであったが、あまりの苦痛に叫ぶカンダタに涙を流し、「堪えれば、きっといいことがあります」と精一杯激励した。はじめはただの慰めであったが、毎日毎時間繰り返しカンダタに言い聞かせる内、蜘蛛自身カンダタの未来を真剣に切望し始め、「きっと良いことが起きる」と本気で思うようになった。

 そしてふと、天上にいた時の気持ちを思い出した。あの時、蓮池の淵から釈迦と共に下を覗き込み、カンダタを見つけた時、蜘蛛は叫んだのだ。

「私に力があったなら、あの者の力になれるのに! 」

毎日仏たちの談義を聴いてた蜘蛛は、ごく自然にそう思った。それを聴いた釈迦は、慈悲深い微笑みをたたえて言った。

「あなたが望めば、できるでしょう」

その言葉に押され、自ら釈迦の手から蓮池に飛び込み、カンダタのそばにやってきたのだ——

 地獄の底にやってきたのは釈迦の計らいではなかった。自分の願いだったのだ。ということは、いくら待っても釈迦の救済は来ない可能性がある。責任の所在は自分にある。蜘蛛はにわかに恐ろしくなった。地獄の底に住み続けることが、ではない。天上に住まおうが地上に住まおうが自分が蜘蛛であることに変わりなく、一切頓着ないことだ。しかし、自分を信じるカンダタの気持ちを裏切ることが恐ろしい。なぜこんなに大事なことを忘れていたのだろう。

「おい」

突然カンダタが声を上げた。

「あの身体、まだ使えるんじゃないか」

地獄の底には頭から離れてしまった身体があちこち転がっている。大概は鬼の責苦に耐えかねて頭だけ逃げ出してしまい、置き去りになってしまったものだ。不思議である。苦しみを感じるのが頭なのであれば、頭だけどこまで逃げようと苦痛から解放されることなど無いのである。その辺りカンダタは覚知しており、天上から落ちてきた時のまま過ごしていた。

「まさか」

「なんだ、まさかとは」

「その身体、奪ってしまうおつもりですか」

「今の身体で次の機会が来ても登ることはできん」

 カンダタの指す男の身体は随分大きく、手足も屈強に太い。確かに天上まで登っていくには十分な頑丈さを兼ね備えていると言えた。

「まだ人から奪うのですか。魂に悪業を積むことになりませんか」

カンダタは蜘蛛の制止を聞かず、頭の無い身体をゴロリとひっくり返し、瞬間、金縛りに合ったように動きを止めた。

「どうなさったんです? 」

蜘蛛はカンダタの横顔を覗き込んだ。その目線は身体の背中に釘付けになっている。見ると、何かで抉られた深い傷がいくつも刻まれていた。鬼たちに付けられた傷にしては生々しい。生前の傷をそのまま持ち込んだもののようであった。

「この、この傷を見たことがある…… 」

カンダタはタタラを踏んで後ずさった。

「まさか…… 」

 カンダタの古い古い記憶だった。生前幼くして口減しのために売られたカンダタは、闇市で盗賊の頭領に買われた。頭領はカンダタに火付け泥棒から教えた。わざと火を付け、頃合いを見計らって皆で盗みに入るのである。当然危険である。初めての押し入りの際、カンダタは恐怖のあまり、煙立ち込める屋敷の中でわんわん泣いて使い物にならなかった。それどころか火の中から子どもの泣き声がする、と近所のものたちが火消しに勤しんだため、あっというまに鎮火してしまったのだ。当然大した稼ぎにならず、捕縛されそうになった者もいた。それを咎められ、冷たい土の上で鞭打たれた。頭領の振るう鞭は容赦無く、カンダタの幼い皮膚はあっという間に腫れ上がり、裂けた。あわや十度目の鞭を振り下ろされそうになった時、大きな腕がカンダタを包んだ。盗賊の若い衆が見かねてカンダタを庇ったのだ。頭領は頭に血を上らせ、革の鞭から鉛を仕込んだ鞭に持ち替え、庇った若い衆を打った。若い衆はカンダタの上に覆い被さったまま、噛み締めた歯の隙間から呻き声を上げて耐えた。しかし鉛の入った鞭は若い衆の背を骨まで打ち、二度と立ち上がらせることはなかった。頭領は見せしめにまだ息のある若い衆を峠の岩に縛り付けさせ、干からびるまで放置した。カンダタは怯えてその小さな胸に刻みつけた。「情をかければ我が身が危うい」と。しかし、その生を終えた今、はっきり分かるのだった。産んだ母にも捨てられた命である。後にも先にも、もしかしたらこの後この地獄で何億号の時を経ようと、あの時受けた以上の情を受けることはないだろうと。そして、この男ほどの親切さを持っていても、地獄に落ちているという事実に打ちのめされた。

 予期せずカンダタに恐ろしいほどの感情が押し寄せてくるのを、蜘蛛は見た。どんなに苦しい目に遭っても、鬼に締め上げられても一粒の涙も流さなかったカンダタが、空気を振るわずほどの声を上げ、号泣し始めた。

「俺には蜘蛛を助けたというだけで、助かる機会があった。しかし、この人には無かった! 俺が大悪人になっているからだ! 蜘蛛よ、俺にはお前のように恩人を助ける力も機会も無い! 俺は無力だ! 」

蜘蛛はカンダタの変化を見守った。大悪人のカンダタが、初めて縁によってもがき、苦しんでいるのである。蜘蛛は驚きと感動と同時に、胸が潰れるような悲痛を感じた。どうしてもカンダタを助けたかった。夢中で叫んだ。

「この方の頭を探しましょう! 」

カンダタは荒く息を吐きながら繰り返した。

「頭を……」

「そうです。頭だけになった者たちを拾って歩いている鬼を見かけました。きっとまだ別の責苦があるはずです」

「見つけてどうするのだ」

蜘蛛はじっとカンダタを見つめた。カンダタは悟ったように頷いた。

「…… お前が俺にするようにしてみよう」


3.

 その者の頭は、今まさに鬼の手によって灼熱地獄の底へ投げ入れられようとしていた。灼熱地獄は火山の火口からマグマ煮えたぎる中へ落とされたら最後、燃え尽きながら粉々になり、それでも消えることなく断末魔を上げながら永遠に焼かれ続けられるのだ。蜘蛛はその様を天上から見ている時、時と場所によっては生きている人間そのものだと思ったことがあった。

 蜘蛛にとって人間は一つの世界に住む生き物の一種であり、特別に興味を持ったことは無かった。カンダタに出会うまでは。いつか釈迦と周囲の仏たちが話していた。

「命は縁に触れて起き、動きゆく。約束を忘れぬ者は勇気を搾り出す。その時命は花開き、本当の永遠を手にして、我々に連なるでしょう」

その時は全く意味が分からなかった。しかし、今、蜘蛛はカンダタによってそれが分かるような気がしていた。

 カンダタは投げ込まれた恩人の頭に向かって飛んだ。蜘蛛はカンダタの胴に糸を巻き付け、懸命に火口の淵に踏ん張った。カンダタの歪になった両手が恩人の頭を捕え、抱え込んだ。いつかカンダタ自身がそうしてもらったように、庇い、守った。マグマの熱風はカンダタの鬢をチリヂリに燃やした。

「カンダタ様! 」

蜘蛛は吠えた。天上から切れた時はいとも簡単にぷつりと切れた己の糸を、今度こそは絶対切らすまいと幾重にも糸を吐き続けた。熱い。灼熱の風は糸ばかりか自分の足をも焦がそうと踊り狂っていた。蜘蛛の足が一本、折れた。もう一本。蜘蛛は態勢を崩しながらも必死に踏ん張り続けた。さらに二本の足が折れた時、カンダタの声が響いた。

「蜘蛛よ! お前まで落ちてしまう! 」

蜘蛛は強く願った。

「力をください! どうしてもあの方を助けたいのです! 」

その瞬間、蜘蛛の足は全て折れてしまった。蜘蛛は熱風に煽られながら夢中で糸を手繰り寄せ、カンダタの身体に到達した。恩人の頭を抱えたカンダタと蜘蛛は一塊になったまま、マグマの中へ消えた。


4.

 ある日のことでございます。男の子は不自由な腕をうまく使って、水を飲もうとしておりました。男の子の家は裕福ではなく、街からはずっと離れた山の中にありました。水瓶の蓋を開け、湯呑みに水を汲み上げようとした時、小さな蜘蛛が水面に溺れかけているのに気付きました。男の子は器用に肘で蜘蛛をすくいあげ、逃がしてやりました。蜘蛛はお礼を言う代わりに、その家の天井に巣を張りました。

 地獄を縁に、蜘蛛は人間に、カンダタは蜘蛛に生まれ変われたのでございます。法理とはまことに慈悲深いものでございます。