誰かの家が燃えた。午後十時に召集がかかって、俺は詰所に向かってから消防車両に乗車して出動した。
全焼だった。
残火処理を含めて現場の撤収が終わったのが午前二時だった。
本部詰所で片づけ作業をしていると、川崎という後輩の消防団員がやってきた。
丸澤地区の警備班長であり、普段は郵便局の職員として働いている。俺とは二つ違いで中学の頃はサッカー部の後輩だった。
中学生の頃に会話した記憶はないが、消防団に一緒になってから、たまに飲みに行く間柄になった。
川崎は少し疲れた顔で、「すいません、桜井さん、ちょっといいすか」と言ってきた。
「どした」
ただならぬ顔つきだったので、俺たちは詰所の裏手にある喫煙所に移動した。
「あの、俺っすね、今度離婚することになって」
「え、うそ」
「二週間前に嫁さんから切り出されて……。今、急遽実家に戻っているんですよ」
「いやだって、お前さ、家を建てたばっかじゃなかったっけ」。
「はい。嫁さんの実家に建てたんすけどね」川崎はぼうっとした視線のまま、煙草をポケットから取り出して、火を点けた。「その家から追い出されるかもっす」
俺も煙草を吸い始めた。
「お前名義でローン組んだんじゃなかったけ」
「はい。土地は嫁さんのお父さんの名義で、建物は俺名義っす」
「そういうのどうなるの? ローンの支払いとか」
子どもも二人いたはずだ。
「いや、ぜんぜんわかんねえっす」川崎は煙を吐いた。
「ごめん。ていうか、奥さんと仲悪かったっけ? そういうイメージ、川崎家には感じたことなかったけど」
「僕も寝耳に水っすよ。いや、マジ意味わかんないんで」
「理由は?」
「一応言われたんすけどね。飲み会で酒を飲みすぎたこととか、消防で家にいなかったとか、いろいろ言われて。まあ、俺にも悪いとこはあると思うんすけど。なんか納得できなくて。あっちも会う気がないみたいで、もう裁判だって感じなんです」
「ラインとかは」
「やってますけど、なんか事務的な連絡が多いですね……」
川崎が嘘を言っている印象は受けなかった。
突如として離婚を切り出してきた奥さん。
「男じゃねえの?」
「やっぱそう思いますよね」川崎は自嘲気味に微笑んだ。「いや、本人には言っていないんですけど、なんか怪しいんですよ」
「なんで」
「離婚の慰謝料に関する基準とかをスクショで送ってきたんですけど、その画像が嫁のスマホじゃないんですよ」
川崎は画像を見せてきた。慰謝料に関するウェブ記事をスクリーンショットした画像だった。左上にauという表示があった。
「奥さんのスマホ、ソフトバンクなのに画像だとauなんで、なんかおかしいかなって。こういうの、あんまり人に相談するもんじゃないですし」
「調べたいよな、そういうの」
川崎は顔を歪めた。「いやまじどうなってんのかわかんねっすよ。離婚を切り出される前の週には、家族全員でディズニーとか行ったんすよ。そしたらいきなりこんな展開で、めちゃくちゃですもん」
「俺、暇だから調べよっかな」
俺の冗談に川崎は煙を吐きながら笑った。「証拠掴んだら、こっちが慰謝料取りたいですよ」
喫煙所から戻ると、撤収作業の手伝いを再開した。濡れた防火服やホースを干して、道具の点検を行うと、さっさと解散した。
消防団。
消防団法と各市町村の条例を根拠に結成されている準公務員の集団。準公務員、といえば聞こえはいいが、地元有志の集まりである。消防署の本職、消防署員とは立場が違う。
午前三時半に自宅のマンションに戻った。ティッシュで鼻の穴を掃除すると、真っ黒になった。このままじゃ寝られないなと思い、シャワーを浴びてから寝た。
川崎から離婚話を聞いてから、俺はうずうずしていた。
ジャージに着替えると、ランニングスニーカーを履いて、外に出た。日が落ちて、もう真っ暗だ。空には雲も月もなくて、星が輝いていた。
俺は川崎が建てた家に向かうことにした。今は奥さんとふたりの子どもが住んでいるはずだ。
同じ地区内の反対側で、歩けば一時間、走って二〇分くらいの距離だった。俺は耳にイヤフォンを突っ込み、ランニングを始めた。アップルミュージックに入っている曲をランダム再生した。田んぼを抜け、農免道路沿いを進んで、車通りの多い国道を渡った。汗が出てきて体温が上がっていくのを感じた。川崎の家は、住宅街の中にあった消防の帰りに何度か送ったこともある。
俺は川崎邸(もう川崎の家ではないが)の向かい側の三軒隣にある都市公園で走りを止めた。
肩で息をしながら、汗を拭った。数年ぶりのランニングで、髪までびっしょりと濡れていた。砂場の辺りでタバコを吸いはじめ、川崎邸を見つめた。黒い屋根に白い壁、二階建てで、庭先にはルーフ付きの車庫があった。車庫にはトヨタ自動車のヴィッツが停まっていた。奥さんの自動車だろう。
窓から白い灯りが漏れていた。
奥さんたちがいることがわかって、俺は達成感を覚えた。俺はタバコを吸い終えると、少し離れた場所にある自動販売機でミネラルウォータを購入して、また公園に戻った。水を飲みタバコを吸い、川崎邸をじっと眺めた。動きはない。ただ明かりが漏れているだけだった。体温はどんどん下がっていく。くしゃみをしたところで腕時計を睨む。三〇分が経過していた。
俺は家に戻った。帰りは歩いて帰った。
この調査という趣味は、俺に合っていた。時間はあったからだ。ゲームも映画も小説ももうあんまり刺激にならなかった。
初めて奥さんの顔を見たのは、一か月後だった。ごみ出しのためにスウェット姿で出てくるところを見かけた。疲れている感じも、化粧が濃くなっている感じもなかった。最後に会った時と同じ印象で、目鼻立ちはほっそりとしていた。いきなり離婚を切り出すタイプとは思えなかった。
調査を始めてから、少し体が大きくなったんじゃないと言われるようになった。健康診断でも昨年度から体脂肪率も筋肉量もかなり改善していた。ランニングウェアの数も増えた。
一度だけ、二人組の警官に職務質問をされた。
ランニングです、と素直に答え協力的に対応をすると、警官は特に疑う様子もなく去っていった。
俺は毎日、元嫁さんの家へ駆ける。灯りが点いていない時は、なんとなく不安になってしまう。
何をやってんだと客観視してもやめられない。ルーティン化されていて、そわそわしてしまうからだ。飲み会で調査ができないと、家に帰ってひどく落ち込んでいた。
五週間目の日曜日だった。午後九時にスニーカーを履いて家を出ようとしたら、火災警報が鳴った。ピンポンパンポン、火災発生……。
俺は参集をLINEで告げてから、作業服に着替えて自動車に乗り、さっさと詰所に向かった。面倒くせえって態度だが、内心ではウキウキだった。後輩が二人来るのを待った。佐藤は来なかった。俺が積載車の運転席に乗り、火災発生現場へ向かう。
「地図で見たけど、どこだっけ?」
助手席に座った庭師の後輩に告げた。
「ラブホっすね」
「へぇやべえじゃん」
サイレンを鳴らすと、後輩が備え付けのマイクで「緊急車両が通ります」と告げた。
走っていた自動車が道路脇に停車して、ハザードを焚いていく。
現場に到着すると、黒々とした煙が巻き上がっていた。すでに本署の消防車両が放水作業を開始しており、外からは焔を目にすることはできなかった。内部が燃焼しているのだろう。
俺たちは車両を下りて、本部に到着を報告すると放水作業の準備に入った。
送水のために使う小型ポンプの電源を入れながら、ふとホテルの駐車場に目を向けた。砂利が敷いてある一帯には、何台かの車両が停車していた。
そこには、ヴィッツがあった。見覚えがあった。元妻の車両だ。
彼女の姿はなかったが、車両の脇にはジャージ姿の若い男がいて煙草を吸っていた。背が高く、口ひげを生やしていた。川崎より五歳くらい若く見えた。
「先輩!」後輩に呼ばれ、俺は意識をポンプに戻した。
「すまんな」俺はエンジンキーを捻った。
ポンプが大きな音を放って稼働を開始した。
「どうしたんですか?」
翌日、仕事終わりに俺は喫茶店に川崎を呼んだ。店内には客がまばらにいた。
向かい側に座った川崎は、前に会った時よりもさらに痩せているようだった。
昨日の出動にも顔を出していなかった。
「お前、大丈夫か」
「だいじょうぶ、っす」
川崎はホットコーヒーを口にしながら、ぼそっと呟いた。
「実は昨日の火事でさ」
「なんかラブホが燃えたとかって聞きました」
「そこの駐車場で、お前の奥さんのクルマ見つけたんだよ。奥さんはいなかったけどよ、あの、男がいたんだよ。若い髭の男で」
「桜井さん」川崎の声色は尖っていた。「……嫁さんの家とか行ってないっすよね?」
「ん」俺は息を呑む。
「実は、嫁から連絡があって。家の前の公園でトレーニングしている人がいるんだけど、その人、家を覗いているような気がするって。で、顔を見たら、結婚式に出ていたんじゃないかって」
「そんなわけ」
川崎は俺を睨みつけた。
「お前、友達使って探ってんじゃねーよ、ってキレられましたよ」川崎の手は震えていた。「俺がヤバイので遊んでんすか?」
「ち、ちがう。違うよ」
川崎は一呼吸置いてから、舌打ちをした。
「あんた、こえーよ」
俺の日課はこうやって終わった。ランニングも、川崎の家に行くことも二度となかった。
結局、浮気相手がだれか、そもそもいたのかもわからなくなった。川崎が疑心暗鬼になって想像したのかもしれない。クルマだって、本当に奥さんのものだったか、時間がたつにつれて、確信が持てなくなっていった。
俺が火災発生で出動したのは、一か月後のことだった。
夜遅くの火事で、寒い日だった。旧国道沿いの原っぱで起こった車両火災だった。
到着すると、燃え盛る車両に消防署員が放水していた。自治会の人や新聞記者もいた。サイレンの音が騒がしい。
一緒に作業していた消防団員が車両を睨みながら、ぼそっと呟いた。
「いやっすねえ」
「どゆことだ?」
「この感じだと、自殺っすよ。練炭」
川崎、の名が頭に浮かんだ。周囲を見回すが、姿はなかった。
全身で汗が一挙に噴き出した。頭がくらくらとした。
「先輩、顔色悪いっすよ」
「いや、大丈夫だ。さっさと作業しよう」
消火作業が終わると、消防署の団員たちが真っ黒の車両の扉を開く作業を始めた。俺や後輩はその後ろで、青色のビニールシートを持って待機していた。遺体を隠すための措置だ。
「中には一名乗車していたようです」消防署員が無線で告げた。
現場に緊張が奔る。遺体が出るということだ。世間は狭い。もしかすると、知り合いの可能性がある。そういう空気が現場に漂っていた。
俺は違うことで頭に考えを巡らせていた。
川崎のことだ。
一人であるから、心中などの可能性は消えた。
では誰が乗車していた。
扉がバールでこじ開けられると、煙がむわっと漂った。焦げた匂いがした。
消防署員たちが沈痛な表情で、運転席にいた遺体を引っ張り出した。真っ黒こげだったが、女の遺体ではなかった。
着ていたジャージには見覚えがあった。
ホテル脇にいた若い男だった。
呼吸が一挙に荒くなった。
「先輩」俺の耳に響いたのは、川崎の声だった。
川崎はいつの間にか背後に立っていて、ビニールシートを掴んでいた。
「おい、このクルマって」
「多分、嫁のっす……」
俺は振り向いた。
闇の中で、川崎のうっすらと笑んだ顔が浮かんでいた。
俺にはもう、言葉を発することができなかった。
ただ、なんとなくつられて笑ってしまっただけだった。