母の葬式は身内だけの簡単なもので済ませた。
それでも地域柄、同じ地区の人々は家に訪れ「仏壇にだけでも」と手を合わせていった。
この地域ではみんながみんなを知っている。どこの家の何番目の子どもがいつ卒業し、どこに移って何をしているのか。情報の共有は住民の結束だ。
「幸せそうな顔しとるわぁ」
母の遺影を見つめ、こたつに足を入れながら隣家の井上さんが言った。
認知症が見られるようになってから、母は途端に老け込んでしまった。写真はその前年に撮ったもの。車椅子に座り、遠くに霞む日本海と入道雲を背景に撮影したが、それは綺麗に消され、胸元から上だけの母が少し恥ずかしそうに微笑んでいる。
「泉ちゃんも大変だったな」
「いえ、そんな」
差し出した緑茶を井上さんが啜る。
「こんな言い方、弘子さんには失礼だけど、泉ちゃんも楽になったんじゃないの? 聞いとるだけでも、しんどかったもん」
「ついカッとなっちゃって。怒鳴ったって、本人は困惑するだけだったんですけどね」
「よく我慢しとったと思うよ。まあ、終わったことをあれこれ言っても、ね」
それから井上さんはこたつの上にあるミカンに手を伸ばした。母が車椅子になる前の、つまり泉が実家で介護を始める前の、母との思い出を語っていく。
お祭りの準備、川の掃除、初詣の甘酒つくり。
こういう話を聞きたくなくて、葬式を身内だけで済ませたのにな。そう思いながら、泉は「そうなんですねぇ」と微笑む。
「笑った顔なんか、弘子さんそっくり」
そう締めくくり、井上さんはお茶を飲み干した。「よっこいしょ」とこたつから抜け出す。泉は急いで玄関へのドアを開けた。
長靴を履きながら、井上さんは泉がいつ東京に戻るのか確認した。
この家をどうするか。
夫と老後を過ごすには田舎過ぎる。異国の僻地をバックパッカーする娘には平和過ぎるらしい。決めるまで、定期的な管理を井上さんにお願いするしかなかった。
もう一度お礼を言い、泉は井上さんを玄関の外まで見送った。
灰色の雲から、また雪がちらほら降り始めている。
冷蔵庫には作り置きしていた総菜のタッパーが幾つも残っていた。でも今夜はチンする元気が出なかった。
小袋に入ったレーズンとナッツを小皿に入れる。からからと乾いた音が響く。それからふと思い立ち、階段下の収納スペースを開けた。
あった。
埃がうっすら積雪したワインが1本。
母の介護をするようになってから、お酒はまったく飲んでいなかった。特に最後の一年は飲もうとしても喉を通らなかった。
ロワールのカベルネ・フラン。
十数年前に母と娘と三人でフランス旅行に行った際、買ってきたものだ。「裕美ちゃんが成人したらみんなで飲もう」そう母が提案し、そのままになっていた。
熟成した赤を母は好んだ。
ピークを少し過ぎた頃の、果実味が穏やかになり、渋みが柔らかくなった赤。紅茶やドライフルーツのような香りが広がるワイン。
それを三分の二ほど飲むと、最期の輝きのように濃く凝縮された果実味が溢れる部分がある。それを口にした瞬間、母は目を閉じ、ゆっくり息を吸い込むと、ごくりと飲み込みながら香りを鼻から抜くのだった。
「美っっ味い……」
母が唸る。
それから泉を一瞥する。
それが何だか共感を強要されているようで、泉はいつも「そう?」と返すだけだった。「このために生きている気がする」と母は気にせず余韻に浸っていた。
戸棚からウィング式のオープナーを取り出した。
横に眠っていたコルクは抵抗なく抜けた。液に触れていた側面が静脈のように染まっている。
グラスを二脚用意した。
胴回りの太いボトルをつかみ上げ、グラスの縁にあてる。ガチガチとボトルの口がグラスを叩く。吐き出されるように液体がグラスにこぼれていく。
一度瓶を置いた。
手が震えていた。呼吸を整え、もう一度瓶をつかむ。
持ち上げると瓶が揺れる。注ごうと力を込めるとますます瓶が揺れる。ついには両手でボトルを握った。抵抗するようにボトルは揺れ、抑え込むように握り、何とかワインはグラス半分ほどを満たした。
飛び散った液体をティッシュで拭く。
同じように揺れるのを抑えながら、泉はもう一脚にもなんとか注いだ。
力を込めると手が震える。
泉はあの日のように、自分の手の平を見つめた。
その日も母は朝食を終えると、泉の出したお茶と薬を見つめていた。
窓を開け、母の匂いがこもる奥の部屋を開放する。井上さんの家の垣根の金木犀は前日の雨で散り、芳香の代わりに冷涼な空気が鼻を突いた。
タオルを交換する。枕の下やごみ箱の中を確認し、泉はキッチンへ戻ってくる。
「美希さん、お薬飲みましょうね。風邪薬」
「美希っていうの?」
「今日はいい天気ですよ」
そう言って泉はお風呂場へ急ぎ、タオルを突っ込むと洗濯機を回し始める。
母を呼ぶ名前は定期的に変えていた。少し前は「優子さん」、その前は「香苗さん」。向こうももう、自分のことを娘とも「泉」とも認識していない。
「母」と思えば苛立つことも、他人だと思えば堪えられることが多かった。
薬を飲んだら、母は決まって「帰りたい」と言う。一年ほど前、泉が介護施設に入居しないかと提案したとき、大騒ぎしてからすっかりこの家が「施設」になってしまった。
「帰りたいんですけど」
「帰りましょう」
そう言って連れ出し、戻ってきても、もうここは母の家に戻らなかった。玄関を開け、中に入ろうとするたびに、車椅子から転げ落ちんばかりに暴れ大声を上げた。
足早に通り過ぎる泉に弘子が声を掛ける。
「帰りたいんですけど」
「帰りましょう。待っていてください」
掃除機を持ち、泉は奥の部屋へ向かう。母の匂いは消え、何色でもない空気が張りつめていた。
黒の軽ワゴンに乗り、左に防砂林が並ぶ道を走っていた。
右側の斜面には砂地の畑が広がり、細長い緑の葉と茎の波間に紫の小さなラッキョウの花が漂っている。
母は家を出てすぐの段差に躓き、骨折した。約一か月の入院。そのときも母は帰りたいとぼやき続けた。でもさすがに病院ではどうしようもなかった。
泉はその時のことを思い出していた。
右にハンドルを切る。畑の間の轍を走っていく。雨上がりで凹凸の激しくなった道に、車がなんども跳ねた。
「痛いじゃない!」
シートベルトで後部座席に固定された弘子が叫ぶ。
「美希さん、もう少しですからね」
スピードは緩めなかった。丘を上り、雑木林の手前で止めた。荷室から折り畳まれた車椅子を取り出す。
「着きましたよ」
「どこ? ここ!」
弘子のシートベルトをはずす。身を乗り出す弘子を支え、そのまま車椅子へ滑り落とした。
トンビを警戒するウサギのように、弘子は空を見上げていた。
雑木林の間にできた小径を抜けると丘の頂上に出る。開けた砂地。眼下には通り抜けてきたばかりのラッキョウ畑。その先に松の濃い緑。さらにその向こうに日本海が広がっている。地元の人もほとんど来ない見晴らしスポット。
雨上がりの秋の日は殊に、海の青が濃く見えた。
泉が子供の頃、弘子がよく連れてきてくれた。全身で空気を吸い込み、ゆっくりと鼻から香りを抜きながら、やっぱり弘子は「美っっ味い……」と言った。それから同意を求めるように泉を見た。
両手を広げ、泉も真似をした。冷たくて鼻の奥がツンとした。
誰かが一度は畑にしようとした場所なのだろう。砂地とは言え、ある程度の硬さがあった。少し下ると段があった。その下には雨が流れて削った小川のような窪みが走り、砂利も堆積していた。夏にはスカートの裾を持ち上げ、そこに足を置いた。水はなくても窪みだけはいつもひんやりしていた。
「泉はいつか、ここから抜け出すのよ」
「ぬけだす?」
丘の下から吹き上げる風で、弘子の長い髪が揺れていた。
「海も越えて。ずっと遠くに」
弘子が見つめる先に泉も視線をやった。青の真ん中を小さな飛行機が翔けていた。
風が泉のおでこを撫でていく。
弘子は車椅子に座ったまま黙っている。その視線の高さまで腰を落とすと、目の前の砂地の先には青い空しか見えなかった。
ここがどこなのか、弘子にはもう分からないのだろう。
立ち上がり、泉はハンドルを握った。力を込めて押し出す。
そして手を放した。
車輪はぐるっと回り、そのまま止まった。
弘子は動かない。声も出さない。自動車の衝突試験のマネキンのように座っている。
泉はもう一度、ハンドルを握った。
握りしめた。
肩に力を込め、押し出す。
押して、押して、押して、車輪が何度か回ったところで、手を放した。
ゆっくりと、そのまま車椅子が転がっていく。
段の下の窪みへ向かっていく。
少し左にそれていく。右に重さがかかっているのだろう。
それでもそのまま進めば、どこかで窪みに車輪がはまるはずだ。弘子は投げ出される。もう一度骨折する。
目を閉じ、泉はゆっくり1、2、3と数えていった。
4、5―― 6
走り出していた。
車椅子を追いかけた。砂に足が沈む。
傾きながら、車椅子はゆっくりと窪みへ向かっていく。
跳ねるように駆けた。手を伸ばす。
「くそっ!」
掴んではダメだ。勢いで弘子は結局飛び出してしまう。
スピードを上げた。追い抜くしかない。
車椅子の先に窪みが見えた。
車輪は少しずつ回転を抑えていく。右の車輪が砂地に沈み、つま先立ちするように傾いていく。車体がそのまま窪みへ吸い込まれていく。
泉は駆け抜けた。
止まろうとして足がもつれた。そのまま背中から窪みへ倒れていった。弘子と車椅子が落ちてくると覚悟した。覚悟して構えていた。背中にひんやりとした感覚が当たる。それがじわじわと広がっていく。
はぁはぁと息が切れた。唾を飲み込んだ。しばらく待ったが、見上げた真っ青な空からは何も降ってこなかった。
起き上がると、段の少し手前で、車椅子は傾いたまま止まっていた。弘子はそのまま座っている。そして急に現れた人影に顔を向けた。
目が合った。
次の瞬間、弘子は右足を前に出した。アームサポートに手を置き、立ち上がろうとする。
「泉、大丈夫?」
弘子がよろめく。
「お母さん!」
膝をついて段を上る。這うように駆け寄り、前のめりになる母の身体を支えた。
「なにしてんの!」
「ああ……」
弘子が唸った。体重が泉の肩に乗りかかる。軽い。「ああ……」弘子はもう一度息を吐きだした。クス―ッと寝息を立てるように吸うと、また「ああ……」と吐き出す。
「美っっ味い……」
耳元で声がした。
母を抱えながら、泉は傾いていた車椅子を戻した。ゆっくり母を座らせる。
ハンドルを握ると手が震えた。手の平を見た。真ん中に赤い跡がついている。握るとまたガタガタと震えた。
手をハンドルに当てたまま、しばらく震えが収まるのを待っていた。風が吹き、雑木林の樹々が波のようにざわざわ揺れている。日陰になると、途端に空気は冷たさを増した。
「帰りたいんですけど」
弘子がぼそっと言った。
「うん」
手はまだ震えている。震えるまま、泉は車椅子を押していった。
母はもう騒がなかった。それからほどなくして弘子は亡くなった。
「……美味い」
三分の二を飲んでいた。香りをゆっくりと鼻から抜く。そのワインの若い頃を想わせるような瑞々しい果実の声がした。そして消えた。
残りの三分の一。最後の一滴を飲み干すまで、その後ワインはずっと黙ったままだった。
手はずっと震えていた。震えながら注ぎ、震えながら飲んだ。
全身をワインが巡っていく。
目の周りが熱い。こめかみがドクン、ドクンと揺れた。
立ち上がり、部屋の隅に畳まれていた車椅子を広げ、座った。初めて座ってみた。尻もちをつくように座ると、勢いで車輪がグラッと進んだ。ひやっとした。心臓が波打ち、同時に車椅子はすぐ止まった。
涙が込み上げた。
母が愛用していたチェックの膝掛けを広げ、肩から覆うように身体に乗せた。目を閉じる。あの部屋と同じ母の匂いが包む。
飲み終わった瓶とグラスがテーブルに残っていた。母はいつも翌日片づけた。揮発する瓶底やグラスの側面の液体が芳香剤のように部屋の中を満たしていく。
今夜はこのまま眠ってしまいそうだ。雪がかさかさと窓の桟を叩いている。その子守唄がゆっくり、ゆっくり遠くなっていく。