小説

『人が月に住む頃は』十六夜博士(『竹取物語』)

 

 

 指定の居酒屋は高層ビルのレストラン街にあった。入り口を入ると、黒い色調の壁、天井に小さな光が散りばめられている。受付の女性スタッフに幹事の名前を告げると、「こちらにどうぞ」とカオリを案内した。

 案内された先は床から天井までガラス張りの窓際で、夜景が望める特等席だった。夜景は星空をひっくり返したような絶景で、宙に浮かぶ月は一際美しい。プラネタリウムという店名に合点がいくとともに、孤高の月が寂しげに見える。

 マナはどこかしら?

 マナ以外のサークル仲間に会うのは大学を卒業して以来5年ぶり。マナを頼りにしないと心許ない気持ちだった。すでに盛り上がっている10人ぐらいの同級生たちに目を走らせると、マナの後ろ姿に気づいた。少しホッとする。

「遅れてごめんなさい」

 カオリが大きく頭を下げると、騒がしかった一同が瞬時に沈黙し、カオリの声の方に振り返った。「カオリ!」とマナが手を挙げた。

 端に座っていた幹事のアオヤマがすかさず立ち上がり、「いや、いや、いや、待ってましたよ、タケウチさん!」と満面の笑みでカオリを出迎える。「さー、さー、真ん中へ」とうやうやしくカオリを夜景の見える真ん中の特等席に案内した。カオリのために空けていたはずで、予想通りの嫌な予感がする。別の席で良いと言いたいのだけれど、マナがその席の隣に陣取っていたので素直に従うことにした。

「マナ、ありがとう」

 席に着くと、カオリはマナに感謝の意を伝えた。カオリがVIP待遇されることを見越して、カオリを守ろうと配慮してくれているのだ。マナは学生時代からカオリを守る守護神だった。マナは、ううん、と軽く微笑み、頭を振った。

「タケウチさん、俺のこと覚えてる?」

 男子が次々と席を立ち、カオリにアピールする。

「うん、もちろん」と一人一人の名前を言うと、男子は一様に、ヨッシャーとガッツポーズをした。隅に座るサクマだけは微笑んで軽く会釈をしただけだった。

「みんなカオリに鼻の下伸ばしちゃって、みっともなー」

 カオリの斜め前に座っているレイカがうんざりという素振りをする。

「そういうこと言わないで、カオリが気にするから」

 マナがピシャリとレイカを制すると、フンと鼻を鳴らし、レイカはそっぽを向いた。

 最初からこれか――。カオリは暗澹たる気持ちになった。

 レイカのことなど気にせず、男子たちは、カオリをもてなし、次々に質問を投げかけた。目の前にはすでにカオリ御用達のカシスオレンジも置かれている。元気? 仕事は? ひとまず近況を怒涛のごとく聞かれるのをカオリはひとつずつ答えた。

「で、もうご結婚されてる?」

 キクチが聞いた。男子を代表して聞いたのだろう。男子たちが固唾を飲んでカオリの答えを待った。

 ううん、まだなの、と口から出かかった時、マナが言い放った。

「実は、サクマゲンキとお付き合い中です!」

 えー、と一同が大声を上げた。男子たちからすれば想定外の答え。しかも、よりによって相手は、テニスサークルに最も相応しくないと揶揄されていたサクマゲンキ。見た目を華やかに装う他のテニス男子と違い、青と白中心のベーシックな服装で派手さがない。運動も得意ではなく、(なんで文化系に入らないんだろう?)と皆、訝っていた。ただ、カオリはその理由を聞いたことがある。

『本当は科学部が良いかなと思ったけど、自分の殻を破ってみたくて。ゲンキって名前なんだから、ひとつぐらい出来るスポーツがないと』サクマは、はにかんだ。

 女子との出会いが目的でテニスサークルに入る男子も多い中、女子を追いかけ回すようなこともせず、いつも黙々と練習していた。カオリは誠実で清潔感に溢れたサクマゲンキに好感を持っていた。だから、マナの嘘の発言にカオリは少しドキリとした。

 会場は時が止まったように、サクマを含む全員が目を丸くして固まっている。

 マナがカオリの耳元で、「そういうことにしといて」とこっそりと告げた。そして、サクマに強い視線を投げかけ、(話を合わせなさい)とばかりに、何度か頷いた。サクマはマナの意図を汲み取り、丸くした目を元に戻すと、小さく頷いた。

 しばらくの静寂の後、正気を取り戻した幹事のアオヤマがサクマに駆け寄り、「本当なのか!」と詰め寄った。男子たちがサクマの回答を、固唾を飲んで見守る。

「ああ」

 サクマの短い回答に男子たちは絶望し、女子は驚きの悲鳴を上げた。


「さっ、熱愛中のカップルは二人にしてあげて、残りの連中は2次会に行きましょう!」

 カオリとサクマが付き合っているというマナの狂言で、カオスとなった一次会が終わると、居酒屋の出口でマナが宣言した。幹事のアオヤマは意気消沈し、もはや幹事の役目を果たしていなかった。他の男子も同様だ。今日ここに集まった男子は全員独身だったことを考えると、カオリにアプローチするための同窓会だったのだろう、とカオリは理解した。

 カップルとして並んで立たされた2人に、マナが「取り敢えず、二人で帰って。あいつらは私に任せて」とこっそり告げると、ウインクした。

「ではこれで」

 マナの狂言に乗ったサクマがクルリと踵を返し歩き始めた。マナの強い視線を感じ、カオリも、「お先に」と頭を下げると、サクマの元に小走りで近づいていく。

「マジかよ……」

 男子からため息まじりの嘆きが漏れた。並んで歩く偽カップルの後ろ姿は男子達を完膚なきまでに打ちのめした。


 無言のまま、エレベーターで高層ビルの下まで降り、少し歩いたところで、サクマがクスクスと笑い始めた。その笑いはカオリにも伝染し、二人で腹を抱えてしばらく笑った。

「タケウチさん、せっかくだからもう少し話して帰らない?」

 お腹が痛くなって、笑うのが苦しくなった頃、サクマが提案した。

「うん」

 他の男子なら断るけど、提案がサクマのものだったので、カオリは同意した。


 サクマと付き合い始めて5年が経った。

 いや、2年前までは友達だったから、恋人としては2年というのが正しい。

 嘘から出たまこと――。

 同窓会でのマナの狂言は本当になった。

 あの日以来、カオリはたまにサクマと遊びに行くようになった。他の男子とサクマは違い、サクマはカオリの美貌を褒め称えることはなかった。それが心地良かったし、そういう男子がいることにも驚いた。カオリは付き合い始める時、サクマに聞いた。

『ゲンキくんは何で私と付き合いたいの?』

『話が合うからだよ。宇宙の話とか。そんな女子いなかったから。それと何事にも誠実で優しいし』

 少し頬が赤らんだように見えるサクマを見て、カオリは氷のように閉ざされた心が溶けていくように思った。

 何十人、いや何百人にもアプローチされてきたが、全員、一目惚れだとか、綺麗だからだとか、容姿のことしか言わなかった。その度に、綺麗だからなんなのだと、カオリは思った。私がお婆さんになってもそう言うのか。一度会っただけで、見かけだけに惑わされる男性の気持ちが全く分からなかった。

 もっと、自分の中身を見てほしい――。だから、そう言われるたびに断ってきた結果、テニスサークル時代に付いたあだ名は、『かぐや姫』。男性のアプローチを断り続けた寓話の美女だ。

 最終的にはだれがカオリを落とすのか? というゲーム染みた状況にもなり、カオリは心を閉ざしていった。社会人になっても状況は変わらない。社長秘書として社長と取引先に営業に行けば、すぐにアプローチされる。ウンザリだった。断り続ければ、お高く止まってると同性からは嫉妬され、マナ以外心を許せる人も出来ない。

 寓話の『かぐや姫』が全ての男性からのアプローチを断った理由――。それは月に帰るからではない。見た目しか興味がない人間を信用出来ないからだ。ルッキズム全盛の世だから仕方ない――。そんな諦観の中、サクマの態度と言葉は新鮮で嬉しいものだった。

 そして2年。カオリはサクマと付き合えて幸せを感じていた。

「ごめん、ごめん」

 待ち合わせに少し遅刻してきたサクマが息を切らせながら、待ち合わせ場所に佇むカオリに走り寄ってきた。

 ううん、と頭を振るカオリに、「あっ、これ」とサクマはポケットから小さな箱を取り出し手渡した。

 指輪? カオリがサクマを見つめると、「開けてみて」とサクマは笑顔を見せた。カオリが箱を開けると、予想通りダイヤを載せた指輪が現れた。

「結婚してください」

「えっ、ここで言うの?」

 ディナーの後とか、夜景を見ながらとか、勝手にプロポーズのシーンを想像していたカオリは思わず本音を漏らしてしまう。

「だって今渡さないと緊張して、ご飯食べられそうにないから」

 頭を書くサクマに、プッとカオリは吹き出した。ゲンキくんらしい――。

「じゃあ、ご飯食べに行こう」

 カオリはサクマの腕に腕を絡ませ歩こうとした。

「えっ、答えは?」

「ご飯を食べた後」

「えー」

 戸惑うサクマが可笑しくて、カオリはクスクスと笑った。


 結婚式を半年後に控えた頃、サクマの様子がおかしいことにカオリは気づいた。ふとした瞬間に思い詰めるように瞳を虚にした。

 行きつけの喫茶店でコーヒーを一口飲んだタイミングで、カオリは思い切って聞いた。

「ゲンキくん、何かあった?」

 サクマは、「いや」とひとまず否定し、しばらくあちこちに視線を移した。

「何でも言って。私と別れたくなった?」

 カオリはそうであって欲しくからこそ、そういう聞き方をした。サクマとはフランクに話したかった。

「いや、そんなことあるわけない」

 別れという言葉にサクマは慌てた。

「じゃあ、言って」

 カオリと目を合わせたサクマは、小さく頷いた後、話し始めた。その内容にカオリは地の底に落とされるような気持ちになった。

 カオリと別れないと殺すという殺害予告が来たというのだ。一度ではないらしい。予告はエスカレートし、家族に危害を加えるともあったらしい。

「警察に言った?」

「まだ」

「今から行こう」

 カオリは立ち上がり、サクマの手を取った。


「久しぶりだね、こんなのんびり月を見るなんて」

 カオリの部屋から二人で満月を眺めていると、サクマが缶ビールをクイっと飲みながら言った。

「そうね。やっと解決して良かった」

 サクマの殺害予告から3ヶ月。警察、弁護士に相談し、犯人を特定した。カオリの会社が新しく取引を始めた会社のオーナーのドラ息子常務が犯人だった。カオリを見て、一目惚れし、サクマの存在を知り、嫉妬したという。

 でも、これからも同じことが起こるかもしれない――。

 そう思うとカオリの心は完璧には晴れなかった。

 私が醜くなればいい――。

 スキンヘッドにでもして、化粧もせず、洒落た服も着ないようにしようか。綺麗であることはカオリに取ってはもはや絶望でしかなかった。

 そんな気持ちを抱えたまま、月を見ていると、やはり、かぐや姫のことを想像した。かぐや姫は月に逃げたんだろう、きっと。そこには美貌しか関心のない人というものがいないから――。

その刹那、カオリの頭にあるアイディアが浮かんだ。そうだ、逃げれば良いんだ、と。


 サクマと結婚して5年経った。

「僕らが死ぬまでに月に移住出来るかな?」

 営む牧場の厩舎の横で、3人で月を見ているとサクマが言った。カオリの胸元では昨年産まれたキョウカも月を見つめている。中空に浮かぶ大きな灯りが不思議で好きみたいだった。

「この前、ロケットの実験は失敗だったみたいだけど、10年も経てば状況は変わるわよ」

「キョウカが大人になる頃は、普通に月に人は行くんだろうな」

「そうね」

 5年前、カオリたちは逃げた。人から。カオリが目立たず人に会う機会が少ない職業として畜産を一から始めた。牛はカオリを美貌で判断しない。やっとカオリは人生を取り戻した想いだった。

 牧場の横では、ロケットを打ち上げるベンチャーが月を目指していた。広い北海道はロケットを打ち上げるのに好適なのだ。

 宇宙好きの二人にはラッキーな偶然。時折、月を眺めてはベンチャーの成功を祈った。

 かぐや姫のように、もう月まで逃げる必要はない。でも、人が月に住む頃は、誰もが見掛けで判断されない世界になっていて欲しい――。

 キョウカがフワーと欠伸をした。無垢な仕草は何より可愛く、美しい。